図1―2―9 明治初期の多摩市域周辺交通図と加組村々
明治五年(一八七二)一月、多摩郡の神奈川県への移管が完了したことによって、市域は同県の統一的な殖産興業政策、交通政策の影響を受けることになった(安藤陽子「維新期多摩郡の管轄替えと行政区画」多摩川流域史研究会編『多摩川・秋川合流地域の歴史的研究(第一次研究報告)』)。維新以降、江戸時代における人と牛馬による輸送から、牛馬車、人力荷車といった小運送車輌による輸送法が普及しはじめていた。このため、県内の流通促進も企図しつつ、明治六年(一八七三)から翌年にかけて神奈川県は、車輌輸送に対応できるよう、県内諸村に一般道路の整備をたびたび布達した。すでに明治六年には、生糸が八王子から東京経由で横浜まで馬車によって輸送されはじめていた(森本晋也「横浜・八王子間馬車道新設計画と「地域」開発」『法政史論』20号)。このため県では、急勾配が多く、車輌による大量輸送に対応できなくなっていた横浜街道に替わり、東京を経由せずに八王子と横浜を直接結ぶ馬車新道設置計画を立てた。また、県の交通政策の影響は市域の渡船場運営のあり方にもおよんでくることになった。