明治初期の交通状況

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このころ、市域内の諸村と江戸時代から地域経済の中心地として発展していた府中・八王子・原町田・厚木とを結ぶ主要な道が数本あった(図1―2―9)。この内、関戸村と府中宿を結ぶ厚木街道の多摩川渡河地点には、一ノ宮村が権利を持つ渡船場が設置されており、市域も含む多摩川南岸村々の人々の多くは、在来産業である炭をはじめ、多摩川鮎、目籠などを、この渡船場を通って府中宿へ売りに行き、現金を得ていた(杉田卓三家文書、資三―65)。また同街道を南へ行くと原町田村に出ることができ、開港以降、八王子から横浜に生糸が運ばれていた横浜街道(「絹の道」)と接続できた。この時期、多摩地域では、養蚕、生糸産業が急速な発展をみる。市域内諸村でも、蚕糸関係品の横浜などへの出荷を考え、より便利な輸送路整備を望みはじめていた。

図1―2―9 明治初期の多摩市域周辺交通図と加組村々

 明治五年(一八七二)一月、多摩郡の神奈川県への移管が完了したことによって、市域は同県の統一的な殖産興業政策、交通政策の影響を受けることになった(安藤陽子「維新期多摩郡の管轄替えと行政区画」多摩川流域史研究会編『多摩川・秋川合流地域の歴史的研究(第一次研究報告)』)。維新以降、江戸時代における人と牛馬による輸送から、牛馬車、人力荷車といった小運送車輌による輸送法が普及しはじめていた。このため、県内の流通促進も企図しつつ、明治六年(一八七三)から翌年にかけて神奈川県は、車輌輸送に対応できるよう、県内諸村に一般道路の整備をたびたび布達した。すでに明治六年には、生糸が八王子から東京経由で横浜まで馬車によって輸送されはじめていた(森本晋也「横浜・八王子間馬車道新設計画と「地域」開発」『法政史論』20号)。このため県では、急勾配が多く、車輌による大量輸送に対応できなくなっていた横浜街道に替わり、東京を経由せずに八王子と横浜を直接結ぶ馬車新道設置計画を立てた。また、県の交通政策の影響は市域の渡船場運営のあり方にもおよんでくることになった。