一ノ宮村渡船場の運営

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市域の多摩川渡船は、江戸時代後期以降、一ノ宮村が渡船と冬土橋架橋の権利を持っていた。冬土橋というのは、川の水量が減る十一月から四月までの間、渡船のかわりに架ける簡易な橋のことである。そして、渡し船の製造・修復経費や冬土橋架橋経費などは、「加組」と呼ばれる渡船場組合によって負担され、渡船場を維持していた。寛政三年(一七九一)時点、「加組」には二四か村が所属していたことが確認できる(表1―2―18)が、利害関係によってその構成村に多少の変動があったようだ(通一968頁)。
表1―2―18 一ノ宮村加組村々の変遷と区番組制、大区小区制下の行政区画
寛政3年10月
加組
明治6年5月~
区番組制
村名 明治7年3月
加組
明治7年6月~
大区小区制
第八区五番組 上小山田村 第八大区四小区
下小山田村
第八区六番組 松木村 第八大区五小区
大沢村(南)
上柚木村
下柚木村
中山村
越野村
第八区七番組 別所村* 第八大区六小区
堀之内村*
中野村(東)
大塚村
和田村(上・中)
第八区八番組 程久保村 第八大区七小区
高幡村
南平村
三沢村
落川村(上・下)
平山村
百草村
第八区九番組 連光寺村 第八大区八小区
落合村(上・下)
渡船場権 一ノ宮村 渡船場権
貝取村
乞田村
寺方村(東)
関戸村
第九区二番組 鑓水村 第九大区二小区
寛政3年10月加組は、「資料編二」(1)No.17、「通史編一」参照。明治7年3月加組は、「資料編三」No.81参照。
注)「*」印の村…「資料編三」No.81では、第八区六番組。

 明治初期の「加組」村々については特定できないが基本的には江戸時代以来変わらなかったと思われる。この渡船場では、「加組」村の人は、船賃、土橋通行賃が無料となった。一方、この「加組」以外の村人や旅人からは賃銭を徴収し、多くの現金収入があった。渡船場収入は、当初、渡守(わたしもり)の直接収入となったが、次第に一ノ宮村の管理が進み、その一部は、同村で積立をし渡船場の維持経費に充てられていた(通一970~972頁)。また、村の財政補填にも使われるようになっていたのであろう。このため、一ノ宮村は、他村が独自に渡船(特に旅人の)を行い、自村の権益を犯す場合、争論を起こしていた。しかし、一ノ宮村は幕府諸役人の通行などの公用を果たすことで、渡船場権利の公的な保障を得ており、日常的には「加組」村の人々の渡船通行をある程度、保障していたため、そうした争論は、享和二~三年(一八〇二~三)を最後にみられなくなっていた(通一967頁)。
 幕府にかわって明治新政府が成立すると、旧来の一ノ宮村の渡船場権利の正当性は弱まったが、新政府諸役人をはじめ、「加組」村々や旅人の通行を保障することで、江戸時代同様の運営を維持しつづけた。
 しかし、旧来の運営体制をとる渡船場では一般の通行人に対して渡船賃のつり上げをすることが多く、新聞投稿では、公共機関によって渡船場を管理し、公定船賃を定めるべきとの主張もされはじめていた(『横浜毎日新聞』明治五年七月二十六日付・明治六年十二月三十日付)。
 このころの新政府は、中央集権化政策を展開し、地域の再編成を推し進めていた。一ノ宮渡船場「加組」村々も、明治六年(一八七三)五月、区番組制が実施されると、行政的には表1―2―18に示したように編成されたが、一ノ宮村渡船場「加組」運営体制は、区番組制に対して独自性を保って運営されつづけていた。