土橋架橋権をめぐる争論

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明治六年(一八七三)十一月、一ノ宮村は旧来の権利に基づき、冬土橋を架橋した。幕末維新期に川筋が一ノ宮村から関戸村へ移動したため、関戸村内での架橋となった(資三―79)。その翌十二月三日、関戸村が、一ノ宮村による土橋架橋地点のそばに独自に土橋を架橋し、往来の旅人より橋銭を徴収しはじめた(資三―79)。このことは、従来の渡船場運営秩序を乱す行為であったため、一ノ宮村は、関戸村に架橋した土橋の取払いを要求した。しかし、関戸村はそれら要求に応じず、交渉がもつれたため、一ノ宮村では小前惣代山口茂兵衛ほか一人が原告として、神奈川県裁判所に旧来の運営秩序の正当性と公共性を主張し、関戸村を訴えるに至った。これに対し、被告の関戸村側では、村用掛相沢勘七と堤防掛小山政五郎が逆に訴えを起こした。それによれば、①一ノ宮村が架橋した土橋は粗略な橋のため、人馬とも通行に差し支えたので村費で土橋を架けたが、架橋については原告人山口の許可をとっている、②一ノ宮村の渡船場権利を保障するという享和三年(一八〇三)の裁許書は関戸村には関係がなく、川筋が当村内に移動しているので、一ノ宮村が文句をいうのは不当である(資三―79)とし、①においては一ノ宮村渡船場の公共性の欠如、②においては同渡船場の正当性の欠如を主張している。
 また、双方が神奈川県裁判所に訴訟を行った前後、旧来の渡船場「加組」村々も、各小組合ごとに一ノ宮村支持の運動を活発化させ、一ノ宮村渡船場権利擁護、従来の運営秩序の維持・再公認を求める訴訟を神奈川県庁に起こした。訴訟の中には、関戸村は、無料通行であった一ノ宮村土橋を破壊し、自ら架橋した土橋において公用、私用共に通行料を徴収しているが、それはすべて関戸村出身の第八区九番組戸長井上惣兵衛の指図で、同村村用掛相沢勘七と共謀して行ったことだと、区番組戸長に対して不信感をあらわにしているものもある(杉田卓三家文書)。この訴訟内容には誇張もあると思えるが、区番組制が旧来の渡船場運営秩序に影響を与えていることがうかがえる。
 明治七年二月に入りやっと、関戸村と一ノ宮村との間で内済(和解)がまとまり、済口証文が神奈川県裁判所長尾崎忠治に提出された。内済ではあったが、被告の関戸村側の独自土橋架橋は先例がないとされ認められず、事実上一ノ宮村側の勝訴となった。幕府によって公認された一ノ宮村の冬土橋架橋権利が、結果として新政府によっても改めて確認されたのである。しかし、渡船についての取決記載はなく(資三―81)、ここに関戸村の新たな参入の道が残される結果となった。そのためか、一ノ宮村は翌三月、関戸村を除く「加組」村々から、川筋がどこへ変わろうとも一ノ宮村の渡船と土橋架橋の権利を確認すること、また維持経費の負担を行い、「加組」を離脱しないという内容の「渡船場加組連印願書」を取り付けている。また、「加組」に所属しない多摩川北岸の府中宿、是政村や谷保村などからも、従来通り、渡船・土橋の維持経費を負担すること、公用・私用の通行に差し支えないように一ノ宮村が渡船をし、土橋架橋をしてくれるようにという「願書」や「頼書」を提出してもらっている(資三―81)。一ノ宮村は、旧来の渡船場運営秩序の再確認を行うことで土橋架橋権利だけではなく、渡船権利を維持するための基盤固めを行ったといえよう。それから、このことで旧来の渡船場の地域による管理体制は一層強められたと思われる。しかし一方で、このとき、改めて結成された「加組」構成村は区番組枠を基本に編成され(表1―2―18)、渡船場の行政管理への移行をスムーズに行う前提ともなったと思われる。

図1―2―10 関戸渡船場