明治七年(一八七四)五月になり、冬土橋を撤去し、渡船に切り替える季節を迎えた。同月、関戸村は、今度は新規渡船の免許願いを県に提出した(資三―84)。これに対し、すぐに一ノ宮村は、反対願書を提出したが(資三―84)、結局、県下で大区小区制が施行された約二か月後の八月になり、神奈川県から関戸村に渡船免許がおりた(資三―84)。しかし、これ以上に一ノ宮村にとって衝撃的な布令が、その翌月、神奈川県から出された。それは、渡船架橋規則を改定し、管内の渡船はすべて、各大区―小区会所によって運営するという内容の布令であった(資三―84)。殖産興業政策を推し進める県としては、地域に生じていた渡船権をめぐる争いから生じる流通阻害の解消を意図して大区小区制という行政機構に一元化させる必要があった。このため、関戸村、一ノ宮村の各渡船場権利は第八大区―八小区に吸収された。この時、一ノ宮村は、第八大区副区長の中溝昌弘らに渡船引き払いを命じられ、種々説諭されてもなかなか承服せず、このため中溝らは神奈川県に説諭依頼の願書を提出した。この願書では、一ノ宮村の旧来の渡船場権利保有状態は「私有」とされ(資三―84)、同村の渡船場権利の正当性は、大区小区行政上、否定されたのである。同年十一月五日には、第八大区―八小区では、渡船場を関戸村渡口に設置することを決め、その開業願いを神奈川県令中島信行宛に提出している(資三―84)。この第八大区八小区渡船場では、渡船場取締一人、船頭二人を配置、長八間、幅七尺五寸の渡船四艘、長五間三尺、幅五尺五寸の渡船二艘を常備することとし、通常、人一人につき二厘五毛、牛馬は一頭につき五厘を公定通行賃銭として見積もっている。この見積書を受けた県は、公定賃銭の一覧を記した立札を通行人の見やすい場所に設置するよう、特に指示している(資三―81)。県としては「私有」ではなく「公共」の渡船場であることをアピールするねらいがあったものと思われる。