図1―2―11 明治15年頃の関戸村、一ノ宮村
陸軍部測量局発行。国土地理院蔵。二万分の一迅速測図「府中驛」より。
その営業方法はどのようなものであったろうか。年不明ではあるが、村内で協議の上、作成された「当村負担渡船仮規則ノ原案下書」が残されている(藤井三重朗家文書)。この規則案によれば、競売入札で一番高額を提示した個人に一年間の渡船場経営権利を与え、翌年の集会において、その落札金額分を支払うとしている。その年の経営者が決まると渡船場に必要な橋板などの諸材料は、前年の経営者より引き渡される。また、渡し賃銭は決められた定額通りに受け取るようにと注意している。村内のものは無賃通行とされている。おそらく、これは渡船場営業権が与えられたときに作成したものと思われる。そして、この規則案は、大正期から関戸橋が開通する昭和十二年(一九三七)までの関戸渡船場運営方法(川久保清氏談)と基本的に同様であることから、多少の手直しを経て村内において施行されたものと思われる。一ノ宮村渡船場も類似の運営方法であったと思われる。
このように、明治九年四月の願では、一ノ宮村も関戸村も、江戸時代以来の渡船場「加組」を復活させる運営を求めていたが、大区小区制のもと江戸時代以来の渡船場運営方法の解消が進んだため、結局「加組」は復活せず、その後の三新法体制期には、両村が各自、経営権を持つ村請の形で運営されるようになった。