馬車道設置の計画

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明治七年(一八七四)一月、神奈川県から各大区に、八王子から神奈川まで馬車道を設置するという計画が通達された。計画予定路(図1―2―12)は、総距離約四七キロメートルで、市域内では、連光寺、関戸、寺方、一ノ宮の各村内を通過するものであった。翌二月には、神奈川駅から八王子に向けて順次、下調べ的な測量調査を行っていった(鈴木芳行「開港地横浜と八王子を結ぶ新シルクロードの開発計画」『交通史研究』26号)。

図1-2-12 馬車道予定路略図

 その後、同年十月二十日に至り、連光寺村の富沢政恕から、馬車道計画に関与していた神奈川県権大属添田知通に対して、馬車道設置経費の拠出方法案を示した「馬車道新設方法」が提出された(資三―82)。十一月十二日には、県の添田権大属からの諮問に対し、政恕ら八人は馬車道の完成によって交通の便が増し、産業発展が期待できるので、地域を挙げて成功させたいと回答している(富沢政宏家文書)。
 馬車道実現に積極的であった富沢政恕は、同年十二月二十一日、大丸村(現稲城市)の早川周助とともに第八大区担当の馬車道新築掛に任命された。先に県から諮問を受けた他の六人も各大区担当の新築掛に任命された。
 しかしこの時期、各村々の中には馬車道新築に反対するものも少なくなかった。反対理由としては、馬車道新設費用は官費ではなく民費で行う上、新道によって田畑や家屋敷が削られ、八王子産物の流通の便が少し増すだけで、利益はなく、損害のみ多いというものであった(『横浜毎日新聞』明治八年二月十日付)。
 馬車道予定路の第二次実測調査を前に、新築掛第八大区内担当の富沢政恕は、こうした反対意見者への説得や、新道設置実現のための諸条件を整えておく必要にせまられた。そのため、明治八年(一八七五)一月二十六日、富沢政恕は第八大区内馬車道予定路通過の一四か村(表1―2―19)の村用掛、代議人を招集した。そして馬車道実現のための尽力を求め、新道建設の人足徴収方法について、高百石に付き五〇人、戸数一軒に付き五人を徴収すると決定し、反発の予想される小前への説得に努めることを申し合わせている(富沢政宏家文書)。その説得内容は馬車道新築掛富沢政恕がしたためた「馬車道新築説諭」(資三―85)からうかがえる。それによれば、馬車道計画は、馬車だけでなく、荷車、人力車、旅人などの通行の便をよくし、村びとの流通を促進し、寒村が産業発展を遂げることを目的としたもので、目先の利益にこだわって苦情を述べたりせず、人民は協和し、県の計画に尽力して、将来の大益を計るべきだと主張している。
表1―2―19 第八大区内馬車道予定路通過村
小区名村名
七小区平山村
平村
高幡村
三沢村
落川村
百草村
八小区一ノ宮村
寺方村
関戸村
連光寺村
九小区大丸村
百村
長沼村
矢ノ口村
「資料編三」No.83より作成。

 そして、二月には、馬車道新築会所が予定路沿の四つの大区に二か所ずつ、計八か所設置され(資三―83)、会所規則も定められた(資三―85)。この規則によれば、新築掛八人は、建設事務を総裁し、各自の担当大区内の会所にて、新道建設の指揮をとるとされている。また、新道建設のための無賃人足動員方法も示されている。その方法は、村で人足差出を請負い、村内に人足屯所を設置し、世話役を二人置き人足の労働指揮をするというものである。各大区内馬車道新築会所(新築掛)―各村人足屯所(世話役二人―村人足)という建設工事時の指揮系統がこの時までに整えられたのである。そして、この月、第八大区担当馬車道新築掛富沢政恕は、村人一一四人、代議人五人、村用掛連印のもと連光寺村から、前月二十六日の会議で申し合わせた通りの方法での無賃人足提供、新道設置への全面的協力を誓った請書を取っている(資三―85)。担当大区内の他村からも同様の請書をとったのであろう。こうして、県測量役人出張の直前までに、第八大区内各村においては、計画実現に向けて地域を挙げての協力体制が整えられた。
 その翌月の三月に行われた第二次測量調査によって、定杭が打ち込まれ、道路予定地の確定が行われた。第二次調査が終了したころの同月三十一日には、第八大区内の予定路通過の一四か村(表1―2―19)は、無賃人足を村請負にて勤めたいと、各村用掛、代議人、各小区戸長、第八大区担当の馬車道新築掛富沢政恕、早川周助から神奈川県令中島信行に対して願書が提出された。また、同月には、予定路沿道の個別村々や各村有志から県への献金があいつぎ、市域内でも四月九日、連光寺村内で予定路が自分の田畑、屋敷にかかる富沢政恕ほか一八人が、県に土地の無償上地(返納)を願いでている(森本前掲論文)。