計画の取消し

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明治八年(一八七五)十月に至り、建設経費の見積書が各村々から県に提出された(『稲城市史』下、鈴木前掲論文)。馬車道新築掛は提出の前に、計画実現のためにも極力金額を少なく見積もった見積書を提出するようにと説諭していたが、各村々では、かなり高額な金額を見積もった(資三―86)。馬車道新築掛と大区内の村々の間で、馬車道計画への対応にズレが生まれはじめていたといえよう。
 県の方針は、この計画に対し県費の支弁はせず民費による新築を前提とするものであった(森本前掲論文)。しかし、高額な見積り金額を民費のみで賄うのは現実的には困難であった。明治八年(一八七五)五月に決定されていた八王子生糸商人からの資金徴収も進まず(鈴木前掲論文)、有志者、村々からの献金や無賃人足提供だけでは、新築は到底見込めない状況であった。そのため、県側も積極的な動きをみせなくなり、馬車道設置計画は停滞してしまった。
 こうした状況に対し、明治九年(一八七六)一月、馬車道新築掛たちが集まり対策を協議した(森本前掲論文)。この結果、馬車道新築掛五人の連署による「馬車道御新築之義伺書」を一月二十九日、県令中島信行に提出している(資三―86)。その趣旨は、先に各村々が提出した見積金額を否定し、県の見積金額をそのまま各大区に割り当て、さらに各小区の各村々に割り当てるという方法をとって、計画を実現させたいとするものであった。馬車道新築掛たちは、大区小区制下に作りあげた上意下達的な馬車道新築会所体制による計画の実施を計ったといえよう。
 しかし、県は莫大な経費負担を各村々に強いるのは困難とみたのであろう。馬車道新築掛らの積極的な動きにも関わらず、馬車道建設の着工はなされないまま、計画は中断してしまった。
 明治十年(一八七七)十一月二十六日に至り、県庁にて安野勧業課長が予定路沿道各大区の正副区長、馬車道新築掛に対し、各村々に打診し無賃人足の提供や道路敷地の上地の可否について報告することを求めた。その五日後の十二月一日、県は予定していた馬車道調査延期の通達を行っている(鈴木前掲論文)。報告の結果、沿道各村々からの無賃人足提供、上地は望めないとの判断からの調査延期であったのだろう。この後、県側の計画実施の動きはほとんどなくなり、明治十二年、県から各郡役所を通して、関係村々に馬車道設置計画取消しの通達がなされた(富沢政宏家文書)。
 計画中止の主な原因は、八王子商人からの資金調達不調、見積金額があまりに巨額であったにも関わらず、県税支弁がなく各村民費による負担のみであったことにある(『川崎市史』通史編3)。こうした状況に加え、明治八年十月の各村々の見積提出時にみられたように、馬車道新築掛の担当大区内村々に対する指導力が次第に低下していったことも中止を余儀なくさせた。馬車道新築掛には地域の名望家が多く就任した。その一人である連光寺村出身の富沢政恕は、馬車道新築掛になった翌日に、村内の計画予定路沿の「向岡」の地に馬車継立所設置を県に願い出ている。その地は、政恕が幕末に植えた三六〇本の桜樹があり、富沢家の権威の象徴ともいえる場所であり、地域内の各層に共通の郷土意識を形づくっていた(岩橋清美「近世後期における歴史意識の形成」『関東近世史研究』34号)。政恕は馬車継立所をこの場所に設置し、馬車道を引き込むことによって沿道開発を計り(図1―2―13)、権威意識と郷土意識を具象化し、地域の観光名所化、地域経済の発展を企図していたのである(森本前掲論文)。そのために地域の負担を重くしてでも、計画実現を計ろうとしたが、担当大区内にある村々(特に経営が小規模な小前層)は、到底その負担に耐えられるものではなかった。こうしたことも中止の大きな原因であったのである。

図1―2―13 富沢政恕の連光寺村馬車道沿道開発構想図