学制ではフランスの制度にならった中央集権的な学区制が採用された。これは全国に八の大学区、各大学区に三二の中学区、各中学区に二一〇の小学区を設置、それぞれに大、中、小学校を設置するという構想である。多摩市域は、三多摩地域を範囲とする第一大学区第八番中学区に属していた。
中学区以下の区分は府県に任されており、先述の神奈川県学則では学務統轄(「学区取締」の設置)の単位が「大区」(第一則)、小学校の設置単位は「小区」(第三則)といったかたちをとる。これは当時のいわゆる大小区制とよばれる行政区画の改革に対応した措置である。もちろん、本章一節にみたとおり、明治六年五月に実際に発足した行政区画は当初「区」「番組」なのだが(後に「大区」「小区」となる)、その直前であるこの学則制定時段階(二月)の改革案では、まさに「大区」「小区」とされていたのである(資三―53)。
区番組制実施直前の明治六年四月二十八日、関戸村副戸長の井上惣兵衛宅で小学校設立について集会が行われた(「富沢日記」)。この集会は、区番組制で同じ第八区九番組に属すことになっている七か村を対象に、第八区担当の学区取締(後述)により開催されたものである(「御布告書留」富沢政宏家文書 国立史料館蔵)。続けて八、七、六番組に属す予定の村々を対象としても開催されることになっていた(同前)。おそらく番組単位での学校設立を議論したのだろう。そして多摩市域各村が以上の番組内にあったことは、本章一節にみた通りである。即ち、この集会は多摩市域における小学校設立の出発点なのである。
区番組制実施直後、神奈川県権令大江卓は第八区区長と副区長に対し、小学校設立は今日の急務であり、学区取締と協力して五月二十五日までに各小学校を設立せよ、と強く求めている(前掲「御布告書留」)。こうしたなか、多摩市域各村の大部分が属す九番組の場合、五月二日に小学校生徒名の調査が行われ、五日には、はやくも開校したとみられる(「富沢日記」)。「陶民学舎」とよばれるこの学校は関戸村の観音寺に設けられ、落合村を除く九番組各村(関戸・寺方・貝取・乞田・一ノ宮・連光寺)を当初の学校区域とした(資三―76。なお、この史料では十二日開校とされている)。この学校を含めた、多摩市域の学制実施当初(明治六年)の学校設立状況を、同史料より作成した図1―2―14にみてみよう。県学則の構想にあるように、行政区画である番組が学校設立の単位として考慮されていることは確かだが、かならずしも画一的に設立されているわけでもない点に注意しておきたい。なお、当初の名称は「学舎」であり、「学校」となるのは明治八年(一八七五)六月以降である。
図1―2―14 「学制」期における多摩市域小学校の分合
主に「資料編三」No.76による。
注)潤徳学舎は明治7年6月、寺の東隣・土方円邸内天然理心流道場も教場とした(『日野市史』通史編3)。