向岡学校の誕生

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次に、学制実施から数年後(明治九年)の学校設立の状況を先の図1―2―14にみてみよう。すると、学校は一~三か村によって維持されるものに変化したことがわかる。大小区制の枠組みとは随分へだたったものとなり、あきらかに神奈川県学則の構想通りではなくなったといえる。従来からある村が、学校運営の前面にでてきたといってもよい。このことは、大局的には当初の急進的で画一的な構想が、社会の側の事情とふれあうことで変化していく過程ということができよう。そして「学制」期の教育政策自体も、後期(明治十年以降)になると現実的なものへと変化していくのである。
 この学校再編の多摩市域における動向を、連光寺村の向岡学校設立を例にみておこう(以下「富沢日記」による)。すでに述べたとおり、第八区九番組の連光寺村は、明治六年の陶民学舎創立に関わっていた村の一つである。ところが翌明治七年(一八七四)以降、同村が分離して一村独自の学校を設立しようとする動きが日記に確認できる。その際、特に問題となったのは小学校の資本金(基礎金)造成である(学校資本金については後述)。八月十四日の日記に小学校資本金の件で村役人が小山田村まで行く、とあるのがその最初で、十九日には連光寺村高西寺で小学校の資本金につき集会が行われている。そして翌明治八年(一八七五)四月八日、新設の小学校基礎金の造成方法についての全村集会が同村高西寺で開催された。連光寺村を構成する四集落それぞれの負担額が決まり、その総額が一〇〇〇円とされた。他に器械設備や「本」(教科書か)、「手当」(教員給料などか)についても取り決められた。七月十一日には「小学校新設願書」がだされ、八月十八日に「向岡学校」名での新設許可指令が富沢政恕のもとにもたらされる。開校は同月二十五日であった。そして先の図1―2―14のように、この向岡学校設立の過程と前後する時期、第八区九番組をほぼその学校の受持範囲として設立された陶民学舎(学校)の縮小再編が進むのである。