設立申請書を提出した日の「富沢日記」にはつぎのような記述がある。学校名には村名を用いなさいとのことだが、「当村(連光寺村)の義、字数両殊に字体雅からず」、かつ「今馬車道御新築これ有り候上は、右線路向岡旧跡え取り設けたき心組」なので、「向岡学校と唱名致し」たい。ここに示されているのは、当時進行中の富沢政恕による地域開発の構想、すなわち馬車道による、連光寺村内「向岡旧跡」の観光名所化を軸とする地域経済発展策(本章四節)と、富沢の小学校名へのこだわりが密接に関連するということである。学校名に「向岡」を冠すること自体は、すでに郷学校の例がある。「向岡」は富沢家の権威を軸とした地域の「由緒」「伝統」の象徴であり、富沢にとって郷学校は、そうした地域秩序を強化刷新する切り札だった(一編一章四節)。小学校にも、地域秩序の刷新の役割が一般に期待されており(後述)、この点で「向岡」が位置する連光寺村の小学校名という問題は、容易には譲れない重みをもっていたといえる。
だが、富沢の小学校名へのこだわりの強さは、これのみによるものではないだろう。先の富沢構想自体が、その「洋服煎餅」「日曜団子」といった「向岡」名物品のアイデアにみられる如く、当時の開化政策に適応した地域発展策という性格をもっているのである(森本晋也「横浜・八王子間馬車道新設計画と『地域』開発」『法政史論』二〇)。小学校が地域における文明開化の象徴的存在であることを考えれば、連光寺村があえて一村独自の小学校を設立すること自体、富沢の地域開発構想の重要な一環であったことが考えられる。その意味で「向岡学校」という名の小学校設立は、県の学校命名の方針自体にはそむいていることは確かだが、富沢家の権威を中心とした地域の開発と発展という目的において、「向岡旧跡」というこの地域の「由緒」「伝統」の問題と、文明開化や学校教育の問題が結合するさまをよく示しているということができるだろう。
ところで富沢政恕は、こうした地域開発構想や小学校設立問題に、古来より「天皇の国」として固有の文化「伝統」をもつとされる日本、そうした国家が学校教育などで文明化し発展するというイメージを、重ね合わせていたのではないだろうか。向岡学校設立とほぼ同時期、「五十韻活用弁略」(口絵)と題された一種の国語教科書草案のようなものを、富沢は書いている(富沢政宏家文書)。その清書が終わったのが明治九年十月十四日である(「富沢日記」)。これは五十音の発音の仕方を図も交えつつ解説したものだが、冒頭次のように始まる。「夫吾皇国(それあがすめらみくに)(天皇が統治する日本国)は神世(かみよ)より言葉晴朗(ことばきよらか)」な「言霊(ことだま)の幸国(さち(き)はふくに)」(言葉の霊力により幸せが生まれる国)。ここには国学的素養(記紀神話など)を背景に、「天皇の国」日本の文化「伝統」として、日本語の発音の「価値」が語られている。そして、あとがきでは「今哉(や)皇国文明の時至り、国に大学校、府県に中学校を置(か)れ、各区各村小学黌を設立」し国民教育の体制が整うなか、「若(も)し初学生徒の一助ともならは聊(いささ)か国恩を報する」きっかけになるのではと思いこれを書いたのだ、とするのである。
このように、富沢政恕という一名望家の地域開発構想や学校設立は、単に名望家の状況適応能力の高さやしたたかさという以上に、彼なりの世界観のもとで、天皇や国家という問題に関連して位置づけられていたものと思われる。
図1―2―15 富沢政恕