この学区取締のもと、各学校の維持管理にあたったのが勧学掛・学校世話役である。明治六年八月、落合村の処仁学舎経費に関する史料には、「勧学掛り」として横倉重右衛門と川井順蔵の名が見える(有山武三家文書)。明治七年一月十九日、第八区の学区取締はこの勧学掛の廃止を通達、学校世話役を各学校一人ずつ任命した(資三―72)。処仁学舎は横倉与兵衛(落合村)、陶民学舎は富沢政恕(連光寺村)である。地域の「有志人望これ有る者」を選挙し、これを当局が詮議の上、任命したものだった(資三―72)。また、学校が複数の村によって設立されている場合、多くは各村から一人ずつ世話役が任命されている(資三―76)。処仁学舎には明治七年に乞田村が加わるが、同年七月には同校世話役として、先述の横倉(落合村)と、乞田村の有山十七造の名が確認できる(資三―73)。以後もこの二人が同校世話役として活動した。
図1―2―16 学校世話役任命証(明治8年)
学校世話役は教授以外の学校経営全般に携わったが、明治七年一月二十三日、第八区学区取締が示した「学校世話役事務心得」(資三―72)によると、単に学校経営事務をすればよいというものではないことがわかる。この「心得」は、まず冒頭で、学校世話役は区長や戸長、村用掛といった行政の担い手と協力して村々の進歩に努力せよ、とする。そして「心得」最後の一条では、学校運営にあたり注意すべきこととして、小学校を設立する「御主意」は初等教育はもちろんだが、地域社会の開化を進めること(旧習の刷新)が目的である、だから村内融和して農蚕業にはげみ、村内秩序を乱す原因となる賭博といった悪事を排除せよ、とするのである。小学校を地域社会に設立しそれを運営していくことには、当初より開化政策による社会全体の秩序刷新ともいうべき性格が付与されており、学務委員はその担い手としても位置づけられていたのである。
社会の秩序刷新、これ自体はすでに富沢政恕といった名望家たちが郷学校に期待した問題である(ちなみに、第八区学区取締は全員かつての小野郷学運営の中心メンバーであった)。だが、この時期の社会の秩序刷新は、国家による開化政策の強力な推進を背景に、郷学校の頃にはない格段の徹底ぶりをもって遂行されることになる。こうした点をふくめ開化政策全体が地域に持った意味については、本章六節であらためて触れることとなろう。