小学校運営の経費は地域負担である。明治八年の処仁学校経費をみてみると(資三―75)、支出の半分は教員給料であり、雇の給料を含めれば人件費は支出総額の六割に達する。これに対し収入の方は、その総額中七割近くを占める学校資本金利子に依存していた。補助金(扶助金・委託金)や授業料は僅かなものであった。
明治八年三月ごろ、神奈川県はこの資本金額を一学校一〇〇〇円以上とすることを要求したらしい(資三―74)。同年設立の向岡学校基本金が一〇〇〇円(先述)なのはこれによると思われる。一方、処仁学校の学区を構成する村の一つ、落合村ではこの基本金の基準を満たすことに苦慮し、不足分をどうするか村内で相談する。その結果、村民共有の秣場(肥料や飼料、燃料などに用いる落葉や下草の採集地)を七九人の「預り主」に貸出し、その貸出料を資本金利子に加える形で対応することとした(同前)。落合村は八〇戸程度の村なので、預かり主とは村の各戸のことであると考えられよう。学校経費の負担という問題は、村民の共有地利用のあり方に変化をもたらすこともあったのである。また、明治九年にも県は資本金積立増加を強く奨励し、多くの学校がこれに応じたと思われる(資三―76)。
こうした村負担はなにも明治八年に始まったわけではない。当然のことながら、学校開設当初から学校経費は大きな問題であった。当初、処仁学舎を一村で開設した落合村の場合、明治六年九月二十七日、学校経費不足から同村横倉與兵衛に村への払い下げ地を売却している(寺沢茂世家文書)。また同年六月、第八区中の一四か村は村内の廃寺払い下げ地の地価免除願を提出したが(富沢政宏家文書)、その理由は「小学舎資費」に充当したいというものだった。一四か村のうちには関戸村・落合村・連光寺村が含まれている。これに関連するだろうが、落合村では明治八年十月「処仁学舎費用手当」のため、廃寺となった地蔵院の地所の峰岸万吉への払い下げをめぐり取り決めがなされる(峯岸虎夫家文書)。なお、市域の廃寺問題については一編一章五節を参照されたい。