学校運営の現実

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さて、以下に「学制」期の学校運営の現実をしめす問題をみておくこととしたい。取り上げるのは子どもの就学状況、教員、学校設備の三点である(教材と試験については一編三章五節で取り上げる)。学制は国民皆学を掲げ、すべての子どもたちは学校に通うものとされた。だが、学校教育が社会通念上、大部分の子どもにとって必要なものとはみなされていないこの段階では、それは困難なものであった。陶民学校では明治八年(一八七五)一月、学区各村に対して、満六歳以上の男女児童を漏れなく入学させるよう親に説諭してほしいなどと依頼している(杉田卓三家文書)。
 明治九年段階で各学校にどれくらい就学していたか、表1―2―20の数値を一つの目安にみておけば、全体で六割程度である。全国統計での就学率は、当時四割弱なので、単純に比較すればかなり高い比率ということになる。第八大区全体での就学率も五八・四%と同様に高い(資三―76)。この就学率の高さには、市域における俳諧の普及といった教養の伝統(一編一章四節)を素地とする、教育への市域の人々の関心の高さが示されているのかもしれないが、はっきりしたことはわからない。むしろ、ここでは男子に比較して女子の就学率が圧倒的に低い、という点に注目してみたい。そこで、明治七年(一八七四)の連光寺村の不就学生徒二九人をみてみると、内一八人は女子であり、一八人中一〇人の不就学理由は「子衛」すなわち子守であった。また、一一歳の相沢富士太郎の三女「かね」の理由は、「坂浜村市村八造方え奉行」すなわち奉公である(富沢政宏家文書 国立史料館蔵)。女子は学校に通うよりも、子守や奉公にでて家計を助けることを特に求められていたのだろう。また奉公には社会人になるための教育という側面もあったのである(『日野市史』通史編三)。こうしたことが女子の就学率の低さに大きく関連すると考えられるだろう。
表1―2―20 明治9年就学率
(%)
学校名 男子 女子 備考
処仁 59.3 85.4 30.8
陶民 58.7 75.4 33.9
向岡 51.1 71.4 38.6
昭景 59.0 ―― ―― 明治10年2月調査
生蘭 75.0 91.4 47.4
「資料編三」No.76より作成。

 ところで、先にみたとおり学校経費の大半は教員給与である。このように、学校運営上教員をめぐる問題はきわめて大きい。県学則公布から二か月後の明治六年四月、県から第八区へ、「筆学所」(寺子屋)師匠の中には時々全く小学校教師の任務にたえないものがいるとのこと、開化の障害となるので速やかに廃業にせよ、と通達があった(富沢政宏家文書、国立史料館蔵)。ここには、西洋的な近代学校教育への移行にあたって教員養成が大きな問題であったことがうかがえる。
 多摩市域に即して「学制」期の教員についてみてみよう。まず寺子屋や私塾の師匠から転身した学校教員は、陶民学舎(学校)・昭景学校の佐伯与八郎(寺方村)、生蘭学舎(学校)の真藤平太夫(和田村)である(表1―1―10、資三―76。なお、真藤は後者では「進藤」となっている)。その一方、小学校教員の教授法がばらばらなのは不都合である、として教授法の講習会が明治六年七月に横浜の如春学舎で開催されることになった(「御布告書之記」富沢政宏家文書 国立史料館蔵)。佐伯与八郎をはじめ陶民学舎の教員がこれに参加、その中には富沢麟之助(政賢)もいた(「富沢日記」)。彼が郷学校で学び助教として活躍していたのは、すでに見たとおりである。多様な成り立ちの教員の画一化がはかられていった。
 だが、教員養成が整備されていく結果、教員の資格問題が地域の学校運営上で困難を引き起こす。明治九年七月一日、処仁学校では月江慶道の後任教員に板倉賢阿がなる。板倉は当時学校が置かれていた乞田村吉祥院の住職(教導職)であり、その兼職が制度上問題とされ仮訓導としての任命となった。ところが、その後小学校には訓導補以上の雇用が必要となった。これに対し明治十年七月、処仁学校では雇入猶予願を神奈川県に提出する(有山武三家文書)。学校資本金増加問題があり、とても今新たに雇いいれることはできないし、板倉も努力しており教育上問題はない、というのがその理由であった。
 最後に学校施設の問題を見ておく。県学則では新築を原則としながらも、当分、最寄りの寺院や私宅で開校することを認めていた(第一八則)。先の図1―2―14でもわかるように、設立当初、多摩市域の学校も寺院や私宅に開設されていた。だが、神奈川県は校舎新築にむけて強力な指導を行うこととなる。これに対し、向岡学校と昭景学校での事態の推移は対照的であった(以下、前者に関しては「富沢日記」、後者は「昭景学校資料」山田賢助家文書による)。
 明治十年(一八七七)四月末、県学務課の東条六等属が向岡学校に巡視にきた。向岡学校を含む八小区で学校資本金(増額か)と学校新築を説いたが、その際、連光寺村は向岡学校新築を表明した。この新築計画は時間をかけながらも着々とすすめられていく。明治十四年(一八八一)四月十九日に上棟式、翌明治十五年十一月三日新築開校式を迎えた。このように向岡学校新築が積極的であった背景には、すでに述べたような富沢政恕の意向との関連が考えられるだろう。もう一方の昭景学校の場合、明治十年八月に東条は教場拡大を指示、翌年に完成する。ところが、別の県役人が今度は新築せよと注意する。これに対し昭景学校の関係三か村は現状での新築不可を述べたが、同年七月、七小区区務所に出頭となり、その結果新築に決定、翌明治十二年二月に着工する。つまり、昭景学校の場合、当局の圧力に押し切られた形で消極的に学校建築を行ったのである。対応としてはこちらの方が一般的だったのではないだろうか。