風俗の矯正

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明治政府が成立早々直面していた問題に、幕府と諸外国との間に結ばれた不平等条約の撤廃があった。それを早い時期に実現するため、版籍奉還や廃藩置県を断行して中央集権化を図るとともに、西洋社会を模範として人々の思想・風俗・生活様式などを全面的に変革することを試みた。こうした一連の動きを文明開化と呼ぶ。政府の開化方針は、封建的な村落を近代的な村落に改変することによって貫徹されるものであった。こうした政府の姿勢は違式詿違(いしきかいい)条例に現れている。この条例は、軽微な犯罪を取り締まるための刑罰法の一つで、現在の軽犯罪法にあたる。東京府では明治五年(一八七二)十一月に、他府県では翌年七月に施行された。違式は故意による犯罪、詿違は過失による犯罪と規定され、全九〇条のうち違式三七条、詿違四八条から構成されている。その内容は、裸で街頭を歩かないこと、みだりにごみを捨てないこと、混浴の浴場を営業してはならないことなど、きわめて些細な犯罪を列挙し、こうした犯罪を行うことを戒めている。政府はこうした法令で、庶民の風俗を矯正しようとしたのである。

図1―2―17 違式詿違条例

 こうした動きは、人々の信仰や民俗行事にもおよんだ。政府は、江戸時代から村々で行われてきた祭礼などを旧習と位置づけ、その解体を図った。そして政府の意思は区会所を通じて各村に伝えられた。まず明治六年八月、各番組に対し、神事や祭礼など人が集まる催しを行う際は会所に届け出るよう命じ、さらに翌年一月に開かれた第八区の最初の区会議ではより細かく民俗行事について取り決められた(『稲城市史』下巻)。このなかでは、村で行われてきた講中などを全面的に禁止することや、路傍の石仏や庚申塔などはすべて撤去することを規定している。また、芝居や手踊りなども禁じられ、明治七年九月、寺方村の神楽師森田兼三郎はそれを受け入れる旨の請書を戸長に提出している(杉田卓三家文書)。その内容をみると、村の神事に際して舞う神代の舞を醜い踊りと決めつけられ、禁止されたことが読みとれる。もともと村では、豊作を祈願したり、災害・伝染病などの災厄を追い払うため神事をとり行い、その際、村人が集まり歌い踊ることによって村としての一体性を保ってきたのであった。しかし、明治政府はこうした村の慣習を合理的でないとの理由でいっさい禁止したのである。もちろん、民俗行事への規制は文明開化期に始まったわけではなく、江戸時代においてもしばしば見られたことである。しかし、江戸時代では秩序から大きくはずれたときにのみ規制がかけられたのに対して、この時期は、民俗的世界そのものを敵ととらえて規制したため、かつてない激しさをともなっていた(安丸良夫『近代天皇像の形成』)。ただし、それでも明治政府は民俗的世界を完全には破壊できず、いまでも江戸時代以来の講中が残っている地域もあり、路傍に石仏を見ることもできる。それらは文明開化の波に抵抗することによって、現在まで生きながらえたのである。