文明開化は西洋の新しい文物や習慣を人々の生活のなかにもたらした。政府は明治三年(一八七〇)九月に平民の苗字使用を許可したのを皮切りに、散髪・廃刀の自由を認め(明治四年八月)、人身売買を禁じる(明治五年十月)など、庶民の権利を認める法令を布告してきたが、人々の生活習慣にとって、もっとも大きな変革は太陽暦の採用であっただろう。これは明治五年十二月三日を明治六年一月一日とし、この日から太陽暦に移行したのである。旧来の太陰暦では閏月を含め年一三か月あり、月給制をとる場合、支出が多くなったり、太陽暦を採用している西洋諸国との貿易に支障をきたすなど、政府にとって改暦する理由はあったとはいえ、ほとんど前触れもなく布告したため、一般の庶民には改暦の意義はほとんど伝わらなかった。そればかりか、生活や生産の習慣に大きな関わりをもつ暦の変更に大きな戸惑いを抱くことになった。そのため、当時の庶民が記した日記のなかには、太陽暦での日付と太陰暦での日付を併記したり、あるいは太陰暦のみを記載するなど、改暦へのささやかな抵抗を行っていることをみることができる。「富沢日記」には、明治六年の日記の冒頭に「明治六年太陽暦」と書いて、改暦を自らに言い聞かせるかのような記述がみられる(図1―2―18)。これは翌年の日記にも引き継がれ、明治八年の日記からはこうした記載が見られなくなる。二年経って、ようやく太陽暦に慣れたということなのかもしれない。
図1―2―18 明治6年冒頭の「富沢日記」
これ以外にも、文明開化期には、断髪や洋服など身だしなみに関するもの、馬車・人力車・ガス灯など交通に関するもの、牛鍋などの新しい食べ物を人々の生活にもたらした。むろん、これらが村にもたらされるのは、都市に比べると遅い。「富沢日記」のなかでも、開化の文物をめぐる記述は意外に少ない。ただ、そのなかで興味深いのは、写真撮影に関することである。これは、明治五年九月十二日に横浜へ鉄道開通を見物に行き、家に戻って写真を撮ったという記述である。写真自体は幕末に日本へもたらされ、明治初年には写真師という職業も生まれていた。当初、一部の人々のものであった写真が、どのように村へ入り、庶民へと普及していったのか。おそらく多くの村で、「富沢日記」にみるように、村役人などの上層農民が祝い事や行事などの機会に、写真という文明を村に持ち込むことになったのだろう。しかし、多摩市域ではそれは明治後期になってようやく行われたと思われる。ただ、残念ながら多摩市域には、明治期の写真はほとんど残っていないため、それを確認することはできない。