邏卒と徴兵

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第一節で述べたように、大小区制の導入によって改革組合村は解体されたが、それは地域の治安維持に関する点についてもいえる。文政十年(一八二七)に改革組合村が設置されてから、道案内と呼ばれる人々が、関東取締出役や組合村役人のもとで、組合内の治安維持にあたっていた。道案内には村役人など身元の確かな者が勤めることとされていたが、実際には零細農民がその任務を果たしていた。そして、道案内にかかる費用は組合村が負担した(関東取締出役研究会編『関東取締出役道案内史料』)。神奈川県の成立にともない、新たに捕亡方が設けられたが、人数が不足していたため、従来の治安維持体制が継続していた。ただ、神奈川県は管内に開港場を抱えていたため、明治四年十一月に邏卒課を設け、邏卒総長および大中小三等の邏卒を置いて、居留地の警備に備えた。さらに翌年八月、司法職務定制が制定され、全国的に邏卒が置かれることになった。しかし、多摩市域においては、すぐに実行に移されてはいない。「富沢日記」によると、同年十二月二十八日(十二月三日に改暦されているためあり得ない日付だが)、第三二区の区長富沢忠右衛門と副区長土方直次郎は、邏卒総長から八王子宿へ呼び出され、区内取締のため邏卒を雇い入れるよう命じられた。同時に道案内の廃止も確認された。つまり、この段階まで改革組合村における治安維持の仕組みが残っていたのである。
 しかし、明治六年に入るやいなや、邏卒を雇う旨の請書を提出し、邏卒屯所の建設方法に関する協議も始まった。そして二月初めには、第三二区担当の邏卒三人が着任した。彼らの出自はわからないが、多くの場合、邏卒には廃藩置県によって、職を失った武士たちが任命された。この点で農民が勤めた道案内とは著しく異なっている。つまり、江戸時代においては、各村の警備は基本的に自衛であり、それゆえにその経費は各村の負担となっていたのであった。しかし、邏卒は県が任命し派遣するものであり、自衛とはほど遠いといえる。にもかかわらず、その経費は従来通り村の負担とされたのである。しかも、邏卒が実際に行っていたことは、村の治安を保つというよりは、むしろ上からの文明開化を村に根付かせることであった。そのために村を巡回し、違式詿違条例に基づき、軽微な犯罪を取り締まった。村びとの前に邏卒は文明開化の先兵として現れたのである。
 もうひとつ庶民に重い負担となったものに兵役がある。これは、明治六年一月に布告された徴兵令によってもたらされた。江戸時代においては、兵農分離制に基づき武装は武士階級が独占し、農民が兵士として戦うことはありえなかった。幕末期の農兵にしても、自らの郷土を守ることに主眼があり、軍事力として編成されたものではなかった。それが明治に入り、身分制が解体されるとともに、農民にも兵役が課せられることになったのである。徴兵制の制定は、地租改正と学制の制定とともに、明治維新の三大改革のひとつであった。徴兵令によって、満二〇歳の男子は徴兵検査を受けることになった。ただ、国民皆兵といいながら、当時の制度では、戸主やその家督相続人、代人料二七〇円を支払った者は徴兵を免れた。それでも徴兵は農家にとっては、大切な働き手を取られることを意味していたから、各地で徴兵反対一揆が起こった。一揆までいかない地域でも徴兵忌避などで根強い抵抗が試みられた。
 多摩市域の場合、徴兵に関する史料がきわめて少なく、これにどのように対応したのか明らかではない。ただ、多摩市域に隣接する黒川村(川崎市)の農民が書き記した西南戦争への従軍日記が残っているので、ここから当時の農民兵の様子を探ってみたい。