士族の特権を奪い、西洋化政策を進める政府に不平をもつ士族たちは、明治七年の佐賀の乱、明治九年の萩の乱など、各地で反乱を起こしていた。そうした士族反乱の最大で最後のものが西南戦争であった。これは明治六年政変の後、鹿児島に下野していた西郷隆盛が、明治十年(一八七七)二月、私学校の生徒に擁立されて挙兵してから、九月には政府軍に鎮圧され自刃するまでの過程を指す。このときの政府軍の兵員は六万人余、戦死者は約六三〇〇人、負傷者約九五〇〇人であった。この軍隊の中心になったのが徴兵制によって集められた農民であったのである。このなかに「鹿児島征討日記」(峰岸松三氏蔵)を記した市川作治郎も含まれていた。彼は明治十年二月十七日に鹿児島にむけて出発し、同年十月十八日に帰京している。この間、彼が見聞したことを少し紹介してみよう。
西郷らが蜂起したのと同じ二月十七日、彼が属する東京鎮台工兵第二中隊は先鋒に命じられ、同日午後四時鎮台を出発、横浜に行き、夜陰のなか横浜から海路神戸に向かった。十八日には右手に富士山を見ながら歌を詠むなど、まるで戦場に行くとは思えないような光景が記述されるが、翌日には一転して波風が強くなり、「今ニモ死ヲトゲルト思フ計リ如ク船ニ酔イ、実ニ苦難」と船酔いに悩まされながら、二十日に神戸港に着いた。そして翌日、兵庫港から出発し、二十三日に博多に着き、そこから陸路をとり、二十六日には戦地のある肥後の南ノ関(熊本県南関町)に入った。翌日にはさっそく西郷軍との戦闘に突入し、最初の勝利を得る。しかし、彼が戦場でまず見たのは、家を焼け出された農民たちが妻子を連れて山に逃げるという光景だった。こうした光景は、市川の目にどのように映ったのだろうか。この日記の大部分は戦闘の記録にあてられ、本来農民である彼が戦地の農民たちに対して、いかなる感情を抱いていたかよくわからない。ただ、いま紹介した部分のほかにも、五月二十八日には「此地ハ至テ土地アシク、男女共モ麻衣ヲ着シ、米少ナクシテ、ヲヽク者栗(ママ)唐キビ食シ」など、戦地の農民の暮らしぶりが簡潔に記載されている。おそらく、戦争によって焼け出された農民たちには、同じ農民として同情を禁じ得なかったと思われるが、こうしたことがこの日記に現れないのは、彼自身が戦場で過酷な状況に身を置いていたからだろう。たとえば、四月八日から雨が降り続き、十二日には雨と寒さのため、食事も満足にとれず、眠ることすらできない状況が記されている。こうしたなか、戦病死する者も少なくなかったが、彼は最後まで戦い続けた。九月二十四日に西郷軍が降伏するのを見届けると、二十八日に船で当地を離れ、兵庫からは往路と異なり陸路をとり、十月十八日に東京鎮台にもどった。
西南戦争は、士族兵に対する徴兵軍隊=農民兵の勝利であり、武士の時代の終焉を象徴する事件であった。しかしながら、徴兵忌避の風潮が収まることはなく、政府はこの後、免役規定を少しずつ縮小しながら国民皆兵に近づけていった。