明治十一年(一八七八)七月二十二日、郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則が制定された。これらは三新法とよばれ、近代最初の地方制度に関する体系的な法律であった。
郡区町村編制法は、画一的な行政区画であった大区小区制をやめて、郡・区(都市)・町村という系列に改めたものである。これによって江戸時代の町村を復活させ、町や村に自治団体的性格を認めようとしたものであった。町村の長である戸長は公選とし、地域住民の意思を尊重しようとした。さらに、府県と町村の間に郡を設定し、官選の郡長に町村を監督させることにしたのである。
明治十一年十一月十八日、神奈川県は県内を一区一四郡に制定した。この制定は、神奈川県に属していた武蔵国多摩郡を西・南・北の三つに分割するものであった。分割の理由は、多摩郡の区域が広いので風土人情が異なり、山川による自然の境界もあって、これを一括することが施政上人民の不便が少なくない、というものであった。多摩郡の分割によって、多摩市域は南多摩郡に属することになったのである。南多摩郡役所は八王子横山宿禅東院に置かれ、十二月二日に開設された。初代郡長は佐藤俊正であった(『南多摩郡史』、『立川市史』下巻)。
郡長が管掌する事務は、神奈川県布達(十一月二十六日付)によれば、一.徴税並びに地方税徴収および不納者処分、二.徴兵取調、三.身代限り財産の処分、四.逃亡・死亡・絶家の処分、五.官有地の倒木・枯木の売却、六.電線・道路・田畑・水利に障害がある官有樹木の伐採、七.河岸地借地の検査、八.職遊猟願・威銃願、九.印紙・罫紙の売捌願、一〇.小学校学資金の一〇項目であった。さらに、県令から特に委任されたことについて、県令に報告することになっていたのである(『神奈川県史』資料編11)。
地方税規則は、地方財政を府県財政と区町村財政に区分し、前者は地方税をもって、後者は協議費をもって支弁することにした。府県会規則は、地方税をもって支弁すべき経費の予算、地方税の徴収方法を議定するものとして府県会を開くことを決めたのである。
神奈川県下では、明治九年(一八七六)ころから県会と町村会が開かれていたが、明治政府によって公認された神奈川県会が開催されたのは、明治十二年(一八七九)三月二十五日であった。県会議員の定数は四七人で、各郡ごとに二人から五人の議員を選出することになっていた。南多摩郡の定員は四人であり、選出された議員は石阪昌孝(野津田村、町田市)、富沢政恕(まさひろ)(連光寺村)、谷合弥七(八王子)、天野清助(日野宿)であった。