南多摩郡成立にともない、多摩市域と八王子市域にそれぞれ同名の「寺方村」が存在していたので、明治十二年四月一日に前者は「東寺方村」、後者は「西寺方村」となった。
明治十二年二月七日、多摩市域の関戸・東寺方・乞田・貝取の各村は、旧村用掛と総代人が話し合い、四か村が連合して戸長一人を選出することにした。戸長選挙のとき、投票用紙は旧扱所で各村ごとに開封され、南多摩郡役所に差し出さなければならなかった。市域の各村で選出された戸長は、関戸・東寺方・乞田・貝取の四か村連合が岸政方、和田村が石坂戸一郎、一ノ宮村が山田喜之助、落合村が有山藤左衛門、連光寺村が小金忠左衛門であった(資三―96、藤井三重朗家文書)。
選出された戸長は一三項目にわたる職務(一.布告布達の町村内掲示、二.地租および諸税の取りまとめ、三.戸籍、四.徴兵下調、五.地所・建物・船舶の質入・書入ならびに売買の奥書・加印、六.地券台帳、七.迷子・捨子および行き倒れ・変死人・その他警察署への報知、八.天災・非常時の罹災者の具状、九.孝子節婦その他篤行者の具状、一〇.町村の幼童就学勧誘、一一.町村内人民の印影簿整置、一二.諸帳簿の保存管理、一三.官費・府県費に係る河港・道路・堤防・橋梁その他修繕・保存)を担当することになっていた。このほか、県令または郡区長から命令された事務の処理や、その町村限りの道路や橋などの修理など協議費をもって行う事務も戸長の職務となっていた。このように、戸長の職務は、町村の事務を管理するだけでなく、国政委任事務まで行うことであった。
郡区町村編制法が施行されると、町村は大区小区制のときより自主性を増したので、明治政府の中央集権的な統治に支障が出てきた。このため政府は、明治十七年(一八八四)五月七日、区町村法を全面改正、戸長役場の所轄地域を拡大(町村の区域をそのままにして五町村約五〇〇戸が基準)し、町村住民の公選である戸長では政府の意向を十分に反映させることができないとして、戸長の選出方法を県令が選任する官選に切り替えたのである。
神奈川県は、同年六月十八日に「戸長薦挙規則」を制定し、各郡の戸長役所管轄区域と役場位置を改定した。戸長薦挙規則によると、戸長の選出は連合した町村で町村ごとに選ばれた数人の「戸長薦挙委員」が記名投票によって戸長を推挙する方法であった(『町田市史史料集』第九集)。
多摩市域における戸長の推挙の様子はわからないが、戸長役場管轄区域は貝取、一ノ宮、和田、連光寺、落合、関戸、東寺方、乞田の八か村と隣接する百草村(日野市)は連合して関戸村外八カ村となった。関戸村外八カ村戸長役場は、前記九か村から、戸籍、土地、税金取立、村会などの台帳や帳簿を受け取り、事務の引き継ぎを行った(「引継目録」伊野英三家文書、「各村書籍引継書」富沢政宏家文書)。
このときの戸長は、関戸村の小林祐之(すけゆき)であった。小林は、陶民、長養の両小学校教員を経て、明治十六年には関戸、東寺方村二か村の戸長に就任していた。小林祐之は関戸村外八カ村戸長に就任したときは相沢姓であり、小林姓となったのは明治十七年以降のことと思われる。関戸村外八カ村の戸長をつとめた後、多摩村の成立(明治二十二年)の際には村会議員となり、明治二十二年六月には、初代村長の座をめぐり富沢政賢(連光寺)と争っている(一編四章一節)。その後ほどなくして議員を辞め、転出したようで、南多摩郡役所の雇や書記、東京府属といった吏員の道を歩んでいった。
図1―3―1 小林祐之