村会の審議

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多摩市域で村会がはじまったころ、各村の村会議員数は和田村が一〇人、落合村が八人、連光寺村が一五人であった。関戸・東寺方・乞田・貝取の四カ村連合は乞田村が九人、関戸村が八人、貝取村と東寺方村が各七人となっていた(表1―3―1)。村会では、戸長が提出した議案の審議が議員によって行われていくが、この一例として「神奈川県南多摩郡連光寺村会議事傍聴録」(資三―100)によって連光寺村会の様子をみていくことにしよう。
表1―3―1 各村会議員一覧(明治12~13年)
和田村 落合村 四カ村連合 連光寺村
乞田村 貝取村 関戸村 東寺方村
真藤龍蔵 小泉泰助 新倉菊左衛門 伊野蔵之助 井上季僖 藤井為次郎 高野弥五左衛門
柚木三郎右衛門 寺澤弥十郎 有山清左衛門 伊野平太郎 小川新吉 杉田伊右衛門 小形明太郎
飯嶌冨次郎 寺澤半蔵 有山勝次郎 新倉寅吉 藤井順次郎 伊野銀蔵 小形清左衛門
柚木浅次郎 峰岸米吉 佐伯徳蔵 下野金太郎 相澤勘七 佐伯善四郎 朝倉武左衛門
伊野代次郎 小泉桂次郎 佐伯要蔵 市川芳之助 相澤祐八 杉田音五郎 富沢儀右衛門
峯岸治平 横倉信蔵 馬場藤右衛門 市川廣吉 小林吉兵衛 佐伯幸次郎 富沢五三郎
峯岸稲五郎 横倉助太郎 馬場平左衛門 岸惣助 中村平六 杉田玄内 小島富五郎
石坂富次郎 横倉戸一 峯岸庄左衛門 小山政五郎 萩原甚左衛門
日吉和平 小磯清八 萩原権十郎
河内平蔵 林傳右衛門
土方勝之助
田中治平
加藤長左衛門
相沢理助
林辰五郎
石阪好文家文書、「資料編三」No.97・ 98、伊野英三家文書より作成。
注)和田村・連光寺村の議員は明治12年、その他は同13年のものである。

 明治十二年七月九日、連光寺村会は同村の高西寺内にある向岡学校を仮議場にして、午後二時五〇分に開会した。出席した議員は一五人で、議長が林伝右衛門、戸長が小金忠五郎であった。この村会には、連光寺村に限って支弁する協議費の予算と県会で決定した地方税戸数割について賦課方法を決定することなど、議題が一〇件もあった。
 村会が開会されると、はじめに全議案が各議員に配布され、書記が全議案を朗読した。その後、議案の総体について意見があり、道路修繕費と橋梁修繕費の費目を合併して取り扱うほか、原案どおりに審議していくことを議決した。議題は一条ずつ、第一次会から第二次会へと進んでいったが、第二次会では議員から多くの意見が出された。議題第一条の道路掃除費の但書き(村民が道路清掃を行うことになっているが、不参加者が代人料一五銭を支払うこと)について、病気の者や代人料の支払い負担に耐えられないものなどについて論議があったが、原案どおり議決した。
 議題第二条の村会費については、賦課方法について審議が集中した。原案は村費の賦課を地価割とするものであったが、議員の中から全村に関することだから戸数割でもいいとか、金額が少ないものを戸数割にして、多いものを地価割とするのは不公平である、という意見もでた。議題第二条では、村会費の賦課方法を、戸数割と地価割を半分ずつとする動議が賛成多数を得たのであった。
 議題第六条(県会で決議された戸数割税)の審議でも、賦課方法について多くの議論が交わされた。連光寺村戸数割税の原案は、戸数割と地価割を半分ずつとするものであったが、県会が戸数割と議決した以上は戸数割を重く見るものであるから、戸数割を八分として地価割を二分とするのが至当であるが、戸数割七分・地価割三分とすれば、庶民においても苦情はないだろうという意見や、県の布達にそむくわけではないが、貧民が負担に耐えられないおそれがあるので地価割七分・戸数割三分としたいとか、戸数割が重くなるのを嫌って五分としたように、戸数割をおさえて地価割を重くするのは不公平ではないか、というような意見が出た。議題第六条に対して動議が三つ(戸数割七分・地価割三分、戸数割二分五厘・地価割七分五厘、戸数割三分・地価割七分)出たが、原案とともに過半数を得ることができなかったのである。翌日も午後二時五〇分から戸数割税の賦課方法について審議が継続して行われた。しかし、戸数割と地価割の割合について色々な意見が出てなかなか決まらなかったが、ようやく戸数割三分・地価割七分を議決することができた。
 このほかの議題でも、村民の負担する総額を減額することはなかったが、戸数割と地価割の数値について議員から動議が複数出ることが多く、なかなか議決することができなかった。七月十五日、連光寺村会は原案を修正して、議案一〇条をすべて議決したのである。会期は七日間であった。この間、七月十三日には八王子警察分署府中署長、同巡査一人、横浜十全病院医師一人も傍聴していた。また、この村会傍聴録を書いたのは「向岡新聞記者」なる人物であるが、これは富沢政恕のことと思われる(「富沢日記」、資三―100)。