協議費の賦課

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三新法の一つである地方税規則によって、これまで地方財政が府県税、民費などで錯雑としていたものが府県財政と町村財政とにはっきり区分された。府県財政は地方税をもって支弁することとし、地租の五分の一以内、営業税、雑種税、戸数割の三つを財源とした。地方税の支出は、府県内の利害に関するものだけでなく、本来国庫負担となるべき警察費、河港・道路・堤防・橋梁費、郡区庁舎建設費などが含まれているので、町村財政にしわよせされて、地方財政を圧迫していたのである。
 町村や町村連合の費用は、「協議費」とよばれた。協議費は、町村内住民の協議をもって運営されていたので、町村の財政は自治的な性格を法的に認められたことになる。協議費の費目と割合は、町村住民の協議によって決めていたので、各地で異なっていた。このことを多摩市域で具体的にみるため、和田村の明治十二年度の協議費をあげることにする。
 和田村の明治十二年度前半の支出費目は、会議費、戸長役場費、神社祭典費、道路・橋梁・用悪水堰修繕費からなり、その合計は四六円余であった。会議費と神社祭典費は、それぞれ支出総額の一〇パーセント台であるが、戸長役場費と道路・橋梁・用悪水堰修繕費は三〇パーセント台であった。
 支出費目の中で最も金額が多かったのは戸長役場費であり、その構成比は三五・九パーセントであった。戸長役場費の中で大きな割合を占めていたのは、地租改正にともなう出張旅費で、二一・三パーセントも占めていたのである。戸長役場費の中で戸長の給料は地方税の支弁となっていたので、ここに計上された戸長役場費は定額外費用であった。
 戸長役場費に続く支出費目は、道路・橋梁・用悪水堰修繕費であり、その構成比は二八・〇パーセントであった。道路・橋梁・用悪水堰修繕費は、道路・橋梁修繕費と用悪水堰修繕費に分けられるが、両者の金額はほぼ同額であった。
 明治十二年度後半の協議費は四九円余であり、同年度前半より二円余多いだけであった。支出費目は同年度前半とほぼ同じだが、「支払不足金」という費目が増えていた。明治十二年度前半と異なる点は、会議費、神社祭典費、道路・橋梁・用悪水堰修繕費の金額が減少しているので、戸長役場費の協議費に占める割合が五四・六パーセント、と高くなったことである(表1―3―2)。なお、明治十二年度前・後半の協議費の支出費目の中に教育費が含まれていない(三新法体制下の各村と教育費の関係については一編三章五節)。
表1―3―2 明治12年和田村協議費一覧
支出費目 前半 後半
会議費 8.6  4.70 
戸長役場費 16.87 26.964
神社祭典・雨乞・風祭費 6.50 1.50 
道路橋梁・用悪水堰修繕費 15.00 12.00 
支払不足金 4.245
46.97 49.409
「村会議決御届」石阪好文家文書(国立史料館蔵)より作成。
注)風祭費は、後半では「氷祭費」。

 和田村の明治十二年度前半の協議費四六円余の賦課は、地価割が二九円余(地価一〇〇円について金一二銭四厘二毛)、反別割が七円余(一反について金九銭五厘)、戸数割が一〇円余であった。戸数割は、村内神社を基準にしてつぎのように三つに分けて賦課されていた。五円余は村内神社および同神社の入作を除いたものにかかり、三円余は惣氏子五五戸で一戸について金六銭三厘五毛、二円余は村内の神社および同神社の入作を除いた戸数五二戸で一戸について金三銭九厘七毛を、それぞれ負担することになっていた。
 明治十二年度後半の賦課は、地価割が三七円余(地価一〇〇円について金一五銭八厘七毛)、反別割が五円(一反について金六銭五厘八毛)、戸数割が七円余となっていた。戸数割は十二年度前半の賦課方法と異なり、五円余が五二戸で一戸について金三銭、小作農家三九戸で一戸について金九銭、二円余が神社および同居を除いて戸数五二戸で、一戸について金四銭四厘が、それぞれ賦課されていたのである。明治十二年度後半の協議費は、前半の協議費と比べると、戸数割の金額と一戸あたりの賦課金が減少していたのであった。
 明治十二年度の地方税戸数割は、戸数割と地価割を半分ずつとし、戸数割は一戸につき一五銭七厘、地価割は地価金の多少によって、六つの段階(金五〇銭が三戸、金四二銭が一一戸、金三九銭が七戸、金三二銭が一五戸、金一九銭が一二戸、金九銭九厘五毛が四戸)に分けて負担する金額を決めていた。地価割を決めるときの地価金と課税額の関係はよくわからないが、地価金が少ないと課税額も少なくなっているように見えるので、この方法は税の負担に耐えられないものを配慮する等級負担の方式であった(資三―98)。
 関戸村外八カ村連合村費も、和田村協議費と同じように戸長役場費の占める割合が大きかった。明治二十一年度(一八八八)の関戸村外八カ村連合村費は、戸長役場費、会議費、衛生費、勧業費からなっていたが、戸長役場費は二一九円余で、八一・四パーセントを占めていたのである(表1―3―3)。戸長役場費の中で支出額が多かったのは、「小使雇給」(九〇円)、「消耗品」(五九円余)、「備附品」(三三円余)であった。
表1―3―3 関戸村外八ケ村連合村費(明治21年度)
収入
地価割 戸別割 合計
関戸村 22.447 7.20 29.647
連光寺村 32.171 19.50 51.671
東寺方村 13.442 7.35 20.792
一ノ宮村 19.464 6.45 25.914
乞田村 20.848 11.10 31.948
貝取村 12.208 6.60 18.808
落合村 28.199 13.95 42.149
和田村 21.242 8.70 29.942
百草村 11.449 7.20 18.649
181.470 88.05 269.520

支出
支出費目 金額
戸長役場費 219.37
会議費 2.60
衛生費 19.65
勧業費 27.90
269.52
「明治廿一年度関戸村外八ケ村聯合村費収支予算議案」富沢政宏家文書より作成。

 関戸村外八カ村連合費の収入は、九か村がそれぞれ地価割と戸数割でまかなっていた。しかし、九か村の徴収金額を見ると、地価割が総額の六七・三パーセントであったが、村によってこの比率が異なっていたことがわかる。各村ごとに地価割が占める割合を示すと、関戸村が七五・七パーセント、連光寺村が六二・三パーセント、東寺方村が六四・六パーセント、一ノ宮村が七五・一パーセント、乞田村が六五・三パーセント、貝取村が六四・九パーセント、落合村が六六・九パーセント、和田村が七〇・九パーセント、百草村が六一・四パーセントとなる。このように各村の地価割の占める割合が異なるのは、各村の地価金額が異なることと、和田村協議費の賦課で見られたように、地価金の多少によって段階が設定されたことによるものと思われる。