民撰議院設立建白書の提出以後、民権運動は土佐立志社、愛国社のように、おもに士族が中心となっていたが、明治八年ごろからは、のちに府県会議員となる地方の区戸長や豪農層が運動を担うようになってきた。彼らは、勧業、衛生、教育などの研究演説組織をつくり、民権結社(政治結社)を組織し、運営していったのである。
明治十一年(一八七八)五月、南多摩郡に責善会が橋本政直(小野路村)、石阪昌孝(野津田村)、薄井盛恭(上小山田村)ら二〇人によって設立された。責善会は、神奈川県で最も早く設立された民権結社の一つである。その後、責善会は七人が設立に加わっていたが、設立者の多くは下小山田村と小野路村を中心とした大区の区長・副区長・書記、小区の戸長・副戸長・村用掛や教育者であった。
責善会規則によると、会の目的は、会員が協力して過失を正し、疑わしいことを討議して非を善に導いて智識をのばし、産業を振興させ、その他あらゆることで各自の便益をはかり、自分の身を修めて家庭を平和にする基礎を固めて交誼(こうぎ)を慎密にし、喜びと心配をともにすることを要するという(第一条)。会の目的を達成するため、会員は、血縁や年齢に関係無く疑義を提出して忌憚(きたん)のない批判ができたし、これに対する反論の機会も与えられていた(第九条)。討論では、暴言を吐いたり罵詈(ばり)することなく、条理を開陳して意見を言うことを義務づけられていたのである(第一一条)。
責善会は、毎月第二日曜日の定例会と臨時会が開設されるようになっていた(第二条)が、具体的な活動は不明である。設立者であった石阪昌孝らが明治十三年(一八八〇)七月ころ、上京して養蚕製糸業の育成と生糸の直輸出のため東京生糸商会を設立したことは、責善会の目的である産業振興と関連があったかもしれない。東京生糸商会は、二か月後に失敗していた。多摩市域の人々が責善会に参加した形跡は見られない(資三―104、鶴巻孝雄「多摩の自由民権運動―稲城の民権運動の足跡を中心に―」『稲城市史研究』二号)。
明治十三年二月五日から東京で府知事・県令などを集めた地方官会議が開かれ、全国から府県議や国会開設運動家などが傍聴するため上京した。地方官会議開催中の二月二十二日には、「府県会議員親睦会」が両国中村楼で開かれ、一〇一人の参加があった。府県会議員親睦会には、神奈川県から一三人が出席していた。このとき、南多摩郡の県会議員の富沢政恕(連光寺村)、谷合弥七(八王子横山)、天野清助(日野宿)が出席していた。彼らは全国の府県会議員と交流をしたのだろう(富沢政宏家文書、色川大吉責任編集『三多摩自由民権史料集』)。
図1―3―2 地方官会議院傍聴之証
十二月五日には、府中高安寺で神奈川県武蔵六郡懇親会が開催されていた。懇親会の開催主旨は、六郡の有志者を団結し、もっぱら公益を謀り、神奈川県内の政治についての精神を培養しようとすることであった。懇親会には、一五〇人以上の参加者があり、盛会だったという。また、神奈川県武蔵六郡懇親会の推進者は、責善会の石阪昌孝、佐藤貞幹(都筑郡久保村、横浜市)であり、彼らを含めた幹事五一人の中に連光寺村富沢政賢の名前を見つけることができる。
明治十四年(一八八一)に入っても、南多摩郡では前年に引き続いて懇親会が開催され、民権結社が設立されていった。一月三十日、武相懇親会が原町田駅の吉田楼で開催され、武蔵三郡(南多摩郡、橘樹郡、都筑郡)と相模四郡(高座郡、愛甲郡、鎌倉郡、大住郡)から二〇〇人以上の参加があった。この懇親会の発起人は、石阪昌孝と榎本重美であり、同盟員が三〇〇人ほどいたという。武相懇親会では、松沢求策が社会に最大の幸福を得る方法を、肥塚竜が武州紀行を、上条信次が富と権力は合わせて取ることを、それぞれ講演した。末広重恭(鉄腸)は、はじめに懇親会参加の一大目的は演説を聞いて討論し、これで見聞を広め、知識をみがくことであるといい、数町の田畑を所有し、多くの資本を卸して工業や貿易に従事するものは法律が確定していない以上、重税の取り立てにあっても避ける方法がなく、財産を守る権利が強固でなければ、われわれの幸福を保護する方法がないこと、つまり、民権は身体の自由と財産の権利を組み合わせて成立するものである、と演説した。末広の演説は、武相懇親会の勢力を拡充して、全国にその勢力をおよぼそうという、懇親会参加者に奮起を促すものであった(『町田市史史料集』第八集)。
九月二十一日には、南多摩郡堀之内村(八王子市)保井寺で博愛社懇親会がはじめて開かれた。来会者は、南多摩郡一〇村から五〇人にのぼった。多摩市域からは、和田村の柚木芳三郎と石坂戸一郎が参加していた。十月一日には、大塚村清鏡寺に林副重(大塚村、八王子市)、柚木芳三郎(和田村)、井草孝保(松木村、八王子市)、有山敬之助(乞田村)、黒田久左衛門(大塚村)、鈴木芳孝(堀之内村、八王子市)、大沢信重(東中野村、八王子市)、瀧沢禧巌(堀之内村)の八人が集まり、民権結社を設立するための草稿をつくり、これを村民にはかることを決めたのである。同月十七日、博愛社の設立総会が和田村高蔵院で行われた。博愛社に参加したのは村吏や教員などであり、明治十五年(一八八二)一月ころには一三〇人ぐらいいて、自由党に加盟することを表明していたという(資三―106、沼謙吉「民権結社博愛社の創立」『郷土たま』六号)。
一方、武相懇親会を主導した石阪昌孝は、十月三日に原町田村吉田楼で政治結社融貫社の結成会議を開いた。融貫社は、民権を拡張し、国民の本分の権利義務を明らかにし、わが国の立憲政体の基礎を確立すること(第一条)を目的とし、この目的を拡充するために「新誌」を刊行することになっていた。このため、社員は入社金(金一円)と資金(毎月二〇銭)の納入が義務づけられた。その後、融貫社は、明治十五年一月十日、原町田村吉田楼に自由党幹事の柏田盛文、大石正巳を招聘(しょうへい)して懇親会を開き、自由党地方部の設立を決議したのである。三月十二日には原町田村で学術演説会を開催していた。ところが、六月三日の集会条例改正によって、政治結社支社の設置が禁止されたので、七月二十五日、石阪昌孝、青木庄太郎ら融貫社の幹部は学術を講究することを目的とする融貫社講学会を設置したのであった(資三―105、106)。