一方、十月一日、国会期成同盟大会に出席のため上京した有志委員は会合を開き、国会期成同盟と合体した自由党組織を決議した。同月十八日、自由党結党会議が開かれ、自由党盟約と自由党規則が決定した。自由党の盟約は、自由の拡充と、権利の保全、幸福の増進、社会の改良をはかり(第一条)、立憲政体の確立に尽力し(第二条)、主義と目的が同じ者と一致協力することになっていた(第三条)。また、自由党規則には、東京に中央本部、地方に地方部を設けることや、役員の選出と役割、入党手続、毎年開催される大会議のことなどが書かれていた(『自由党史』)。同月二十九日には、自由党役員選挙が行われ、総理に板垣退助、副総理に中島信行、常議員に後藤象二郎らを選出した。自由党の結成には、神奈川県会議員や民権結社の指導者たち一〇人が参加していたといわれている。
神奈川県で自由党に加盟したのは二八八人で、人数において全国で三位に位置していた。とりわけ多摩三郡の自由党党員数は一六二人で、神奈川県の自由党員の五六・三パーセントを占め、南多摩郡だけでも自由党員が九七人(三三・七パーセント)もいたのである。一方、立憲改進党員は横浜を中心に一六人いるだけで、群馬県の一五人を除いた関東地方の府県(東京府九六人、千葉県三六人、埼玉県一五四人、茨城県八七人、栃木県四八人)と比べてもかなり少なく、全国順位も一九位であった。すでに述べたように、南多摩郡では、明治十五年一月十日に融貫社が自由党に連合して地方部を設立することに決定し、同月十一日には博愛社が自由党に加盟することを表明していた。このように、神奈川県各郡の民権結社の多くが自由党に加盟していったのである。
明治十六年(一八八三)八月二十日、南多摩郡の自由党員は大塚村清鏡寺に集まり、南多摩郡自由党を結成した。南多摩郡自由党の理事長として石阪昌孝を選定し、各地区に通信委員を置き、福島事件の河野広中と林包明(自由党幹事)の家族を扶助することと、南多摩郡自由党内規を決定した。南多摩郡自由党内規によれば、理事長は全郡内の党務を整理し、年二回全郡総会を開催することになっていた。また、全郡を原町田組(原町田・鶴間・小川・成瀬・高ケ坂・森野の各村)、野津田組(野津田・図師・山崎・上小山田・下小山田の各村)、大塚組(東寺方・和田・大塚・東中野・堀ノ内の各村)、三沢組(三沢・高幡・程久保・落川・南平・新井・石田の各村)、日野組(日野宿のみ)、八王子組(八王子・相原・遣水・片倉・下一分方の各村)、平尾組(平尾村のみ)と七つの通信区に分け、平常の諸務は通信区域ごとで決定し、通信員(一人)が理事長と党員の往復通信を速やかに知らせるものとした。このとき通信委員は、渋谷三郎(原町田組)、鈴木雄之助(野津田組)、井上隆治(大塚組)、土方啓次郎(三沢組)、高木吉造(日野組)、青木副太郎(八王子組)、黒田尚雄(平尾組)であった(資三―109)。
図1―3―3 南多摩郡自由党内規
南多摩郡自由党が結成されたとき、南多摩郡にいた自由党加盟者は七三人であった。これを町村別に見ると、日野宿が八人で最も多く、続いて野津田村と下一分方村が五人、八王子千人町が四人となる。以下、加盟者ごとに町村数を示すと、三人の加盟者が四か町村、二人の加盟者が九か村、一人の加盟者が一八か町村となる。
多摩市域では、東寺方村の伊野銀蔵、伊野菊次郎、和田村の柚木芳三郎の三人が自由党員となっていた。伊野銀蔵と柚木芳三郎が自由党に加盟した正確な時期はわからないが、伊野菊次郎は、二八歳であった明治十六年七月に自由党に加盟したのである。このときの保証人は、伊野銀蔵と林副重(大塚村)であった(資三―108)。
明治十六年十月十三日、三多摩および津久井郡の自由党有志によって八王子寺町に八王子広徳館が設置された。八王子広徳館の館主は林副重であり、訴訟の相談、代言人(弁護士)の紹介、紛争の仲介、訴訟関係書類の作成など人権保護を伸張して、地域の便益をはかろうとする在野の法曹機関であった(資三―112)。