明治十七年(一八八四)十月二十九日、自由党は解党した。このとき、国会開設の期限を短縮する建白書を提出することが決まり、十一月七日、国会期限短縮建白書が元老院に提出された。国会期限短縮建白書では、国内は専制政治によって人心は倦み、国外では国権がますます危うくなっているので、人心を一つにして兵備を張り国力を養い、国権を確かめなければならないと、国会開設の期限を短縮して民撰議院の設立を要望していた。また、国会早期開設に関連して言論・出版・集会・結社・請願の権利の制限撤廃も要望されていたのである(『自由党史』)。
神奈川県では、明治十八年(一八八五)一月に国会開設期限短縮の建白書が作成されていた。この建白書には北多摩郡から吉野泰造(野崎村、三鷹市)、西多摩郡から深沢権八(深沢村、あきる野市)、瀬戸岡為一郎(瀬戸岡村、あきる野市)、中西仲太郎(引田村、あきる野市)、馬場勘左衛門、佐藤新平、土屋常七、内野小兵衛(以上、五日市町、あきる野市)、大上田彦左衛門(戸倉村、あきる野市)、並木萬次郎(南小曽木村、青梅市)、井上源太(青梅町、青梅市)が署名し、次のようにいう。国家の治安のもとは究極的には人民が安らかな生活が送れることであるとしている。しかし、「上流」にいる人民は、自由の伸張・権利の強化や政体の変革、政治の改良を望んでいるが、その志は遂げられていないので心安らかでない。「下流」の人民も世間が窮迫して生計が困難なため、恐れおののいて心安らかでない。これらのため民心は政府から離れ、官民が固まって外に対して強くなることができない。わが国の周辺では、ロシアが北からうかがい、イギリスとフランスが西で思いのまま振舞い、清(中国)も日本に対して猜疑心を抱いている。このような国内外の状況を打開するため、五か条の誓文以来の約束である国会開設を期限を短縮して実行することが国家のためになるという。
四月になると、南多摩郡の石阪昌孝、杉豊常右衛門(以上、野津田村)、若林三右衛門、薄井盛恭(以上、下小山田村)、鈴木雄之助(図師村)、林副重(大塚村、八王子市)、土方房五郎(新井村、日野市)、高木吉造(日野宿)、森久保作蔵(高幡村、日野市)、青木正太郎(相原村、町田市)、都筑郡の佐藤貞幹(久保村)の一一人が署名した「国会短縮議建白」が元老院に提出された。国会短縮議建白には、日本は欧米と対等の権利がなく、いまや上下一致して外に向かわなければならないときになっているのに、政府の財政政策が失敗して国民が困窮しているのに訴えるところもなく、救済策が講じられていないので、法を破るものさえでてきている。こうした内外の切迫した状況に対処するには、速やかに国会を開いて官民が共に国を守る策を立てなければならないとある。
神奈川県の有志が提出した国会開設短縮を要望した二つの建白書には、これまで国会開設運動を担ってきた人々の署名はなく、ごく一部の人が署名していたのであった。その上二つの建白書には、自由党の解党直後に出された国会開設の期限を短縮する建白書にあった言論・出版・集会・結社・請願の権利の制限撤廃は、要望されていなかった。さらに、二つの建白書は、当時には存在していなかったという対外危機をもとにして、国権を伸張するために国会の開設を望んでいたのであった。国会開設短縮を要望した二つの建白書に、多摩市域の人々が署名活動に参加した形跡はない。