十三年から十七年の間に、一石(約一八〇リットル)あたり精米の価格は一〇円から八円五〇銭、麦が五円一〇銭から四円、と主穀が一五パーセントから二二パーセントも下落した。このほか、酒が二三円から二一円、醤油が一二円から一〇円、塩が三円五五銭から三円、種油が二五円五五銭から二四円、と日用品の価格が下がっていったのである(表1―3―4)。
明治13年 | 明治14年 | 明治15年 | 明治16年 | 明治17年 | 明治18年 | |
精米 | 10.00 | 10.00 | 9.00 | 9.00 | 8.50 | 8.50 |
麦 | 5.10 | 5.00 | 5.00 | 5.00 | 4.00 | 4.00 |
酒 | 23.00 | 23.00 | 22.00 | 22.00 | 21.00 | 21.00 |
醤油 | 12.00 | 12.00 | 11.00 | 11.00 | 10.00 | 10.00 |
味噌 | 0.21 | 0.21 | 0.20 | 0.20 | 0.15 | 0.15 |
塩 | 3.55 | 3.55 | 3.50 | 3.50 | 3.00 | 3.00 |
種油 | 25.55 | 25.55 | 25.00 | 25.00 | 24.00 | 24.00 |
薪 | 0.06 | 0.06 | 0.05 | 0.05 | 0.03 | 0.03 |
炭 | 0.07 | 0.07 | 0.06 | 0.06 | 0.04 | 0.04 |
農産物価格の下落の中で、生糸価格の下落は大きかった。明治十三年~十四年は生糸一貫目の価格は四五円であったが、十五年が三六円六六銭、十六年が三〇円九五銭、十七年が二六円七八銭、と一年ごとに価格の一八・五パーセントから一三・五パーセントずつ下がっていったのである。十七年の生糸価格は、十三年~十四年の価格の六〇パーセントにまで下がってしまった。
また、この期間、職人賃銭も下がっていった。杣職(そましょく)と木挽職(こびきしょく)の賃銭は十三年から十六年まで一か月三〇銭であったが、十七年から五銭下がって二五銭となった。雇人の賃銭も職人と同様に下落し、長期雇い(一年間)農作男(のうさくおとこ)の賃銭が三〇円であっだのが、明治十七年から二五円になり、短期雇い(一か月)で養蚕に従事する男の賃銭も、同時期に七円から六円になっていたのである。
このような物価の下落は、農業生産にも大きな影響を与えていた。和田村では、明治十七年は、前年に続く旱魃(かんばつ)に加えて気候が不順であったから、耕地一反歩について一円以上の損耗を来たしたという。関戸村外八カ村の「地益表」(明治十七年)によると、農業生産で収益が黒字となるのは大豆と小豆だけであり、稲、麦、粟、稗、蕎麦、甘藷とも赤字であった。多摩市域の村々の農業生産の実態は和田村以外はわからないが、おそらく和田村と同じような状況にあったのだろう(石阪好文家文書)。
農産物価格の下落と増税によって、農民の負債は次第に増加していった。明治十七年九月現在で、南多摩郡の各戸長役場が把握している負債額は、一五八万四五〇七円余に上り、一戸平均の負債額が一〇九円近くになった。この負債の三分の二は、十四年以降の三年九か月に増加したものであるという。一戸あたりの負債額を戸長役場単位でみていくと、三〇〇円以上の負債額があるところはない。しかし、一戸あたりの負債額を村単位で見ると、三〇〇円以上の負債額がある村が六か村もあり、過半数の村が一〇〇円以上の負債があった(表1―3―5)。
1戸平均負債額 | 戸長役場数 | 村数 |
500円以上 | 1 | |
500円~400円 | 1 | |
400円~300円 | 4 | |
300円~200円 | 2 | 16 |
200円~100円 | 7 | 40 |
100円~50円 | 6 | 41 |
50円未満 | 1 | 18 |
計 | 16 | 121 |
多摩市域の負債状況を見ていくと、関戸村外八カ村の一戸あたりの負債額は一七三円余であり、戸長役場単位で三番目に位置していた。村別の一戸あたりの負債額は、一ノ宮村が五一〇円、関戸村が二〇〇円余、貝取村が二一〇円余、和田村が二〇六円余、乞田村が一七三円余、連光寺村が一三六円余、落合村が一〇七円余、東寺方村が八二円余となる。明治二十一年度の関戸村外八カ村連合村費の予算が一一九円余であったことからみても、多摩市域の村々が極度に困難な状況におかれていたことがわかるだろう(『稲城市史』資料編3、「明治廿一年度関戸村外八カ村連合村費収支予算案」富沢政宏家文書)。
明治十七年は九月に二度も台風が神奈川県下を襲い、農村の不況による負債者の増加だけでなく、地租などの税金の滞納者が増加することも予想された。神奈川県では、県会議員や自由党員が中心となって地租軽減運動を行っていったが、これは自由党が春の大会で地租軽減運動を当面の重要課題にしていたからであった。
これより先に、十六年十二月十五日、大住・淘綾の二郡一三三か村では、町村の総代一六四人が地租徴収期限延期建白書を元老院に提出していた。愛甲郡では、十一月下旬に、天野政立・難波惣平ら自由党員が指導した二七町村三九一人の署名がある地租軽減請願書が大蔵卿に提出されたが、受取を拒否された。十二月中旬に、この請願を建白に代えて元老院に提出し、受理されたのである。
南多摩郡では、十七年の末に地租軽減の請願書が作られた。この請願書では、南多摩郡の農民は、十五年以来の穀物価格の変動で収入が激減し、地方費や協議費の増加によって危急存亡のときとなっている。したがって、国庫では物品税の収入が二〇〇万円以上に達したので、地租改正条例にあるように地租を一〇〇分の一にするよう請願していた。請願書には、南多摩郡野津田村をはじめとして二八か村二二一六人の総代四七人の署名が集められた。多摩市域の七か村も、この嘆願書に加わっていた。このとき、署名した総代(村名・村人数)は、林伝右衛門・田中治平(連光寺村一二五人)、藤井順次郎・小川健次郎(関戸村四八人)、佐伯善四郎・杉田吉兵衛(東寺方村五一人)、新田彌右衛門(一ノ宮村四二人)、伊野権之助(貝取村四五人)、有山十七造(乞田村七三人)、寺沢弥十郎・有山佐二郎(落合村九五人)であった。南多摩郡地租軽減嘆願書は、政府に提出されなかったようだ(資三―111)。