松方デフレによって高利貸や金融会社から金を借りた農民は、借金の返済ができないと、所有耕地を減少させ、小作人になってしまったり、返済方法をめぐって高利貸や金融会社と対立し、騷動におよぶこともあった。神奈川県では、明治十七年四月から五月にかけて、大住郡を中心に淘綾・愛甲の両郡に負債農民の騒動が波及し、五月十五日には、相模国一色村の高利貸であった露木卯三郎が殺害された。負債農民は、困民党とか借金党と呼ばれ、高利貸や金融会社と強談(ごうだん)におよぶこともあった。
八月三日、南多摩郡二八か村の貧民が御殿峠に屯集し、借金を五か年据え置いて、五〇年賦で返却することや地所の五〇年賦買い戻しを高利貸に迫った。同月十日、南多摩・高座・津久井の三郡の窮民千数百人は、八王子にある銀行、金融機関を襲撃しようと、御殿峠に屯集した。これに対し、八王子警察署長原田東馬は、窮民たちに解散を命じ、農民の動きをおさえようとして二一か村二二四人を拘引したが、南多摩郡の石阪昌孝、薄井盛恭(上小山田村)・細野喜代四郎(小川村)らが、高利貸や金融会社、銀行を回って調停にあたった。その後、農民の集結が継続的に行われ、負債に苦しむ農民は、無利息何十年賦で負債を返済することを認めるように、債主と直接交渉を展開していったのである。
九月五日、八王子警察署に引致された川口村の困民党書記の町田克敬(かつちか)の釈放と押収された帳簿の返還を要求して南多摩・北多摩・西多摩の三郡の農民が署内に入って二一〇人が検挙されてから、負債農民は統一した組織で県令と交渉を行う方針を採るようになった。
十一月十九日、武蔵国五郡(南多摩・西多摩・北多摩・都筑・橘樹)、相模国二郡(高座・愛甲)、七郡一五〇余か村からなる武相困民党が結成され、幹部(監督・幹事・会計・周旋)二二人を選出し、立木兼善(前横浜裁判所長、法律事務所北洲社社長)を仲裁人として依頼し、県令沖守固と交渉することなどを決議した。県令との交渉は翌年一月十日まで行われたが、不成功に終わった。同月十五日、武相困民党の各村代表が相模原に集合し、神奈川県庁をめざしたが、八王子警察署員が一斉逮捕に取りかかり、若林高之助・須長漣造(れんぞう)ら幹部が逮捕された。多摩市域の人々と武相困民党との関係は、一四人の総代人の中に、落合村の須藤幸二郎がいたことしかわからない。
負債をかかえた農民が高利貸や金融機関と直接交渉をしているとき、倹約を励行して自力更生を助けようとすることも行われた。明治十七年十二月、関戸村外八カ村戸長役場から集会に関する節約令が出た。節約令は、十八年の新年祝日は一日から三日までとすることをはじめとして、冠婚葬祭の参加人数を親・親類・組合に制限し、酒食のもてなしも廃止したのである。さらに、興行は見合わせ、村芝居は厳禁するなど娯楽まで禁止し、「諸般の事柄は応分の節倹」をすべきこととしていた。同時期に、高座郡下鶴間村外三か村でも、関戸村外八カ村と同様な「節倹約定書」が結ばれているので、神奈川県の各地で倹約令が出されたと思われるが、さしたる効果をあげることができなかった(『多摩市文化財資料集・小山晶家文書(三)』、『大和市史』5 資料編 近現代上)。
十八年五月に行われた調査によれば、南多摩郡の各戸長役場では、水田の地券一〇〇円に対して、過半数以上の戸長役場で、それ以下の価格で売買されていたように、耕地価格の値下がりが続いていた。また、各戸長役場は、困民党の騒擾以来さらに困難に陥ったとか、負債のために所有地を失って余業もできないとか、薪・炭・木材の価格が低落し、織物業が休業同然なので生活の途がないという状況であった。多摩市域である関戸村外八カ村戸長役場の村々は、労力を売って暮している者は、目下賃金の多少に限らず雇主が少ないので、その窮状は見るに忍びないという状況であった。