表1―3―6 各村戸口比較一覧 |
村名 | 明治9年 | 明治18年 | 増減 | |||
戸口 | 人口 | 戸口 | 人口 | 戸口 | 人口 | |
戸 | 人 | 戸 | 人 | 戸 | 人 | |
連光寺 | 133 | 750 | 129 | 798 | -4 | 48 |
関戸 | 51 | 250 | 47 | 269 | -4 | 19 |
一之宮 | 41 | 239 | 44 | 266 | 3 | 27 |
東寺方 | 52 | 262 | 48 | 297 | -4 | 35 |
貝取 | 45 | 280 | 45 | 305 | 0 | 25 |
乞田 | 73 | 399 | 74 | 418 | 1 | 19 |
落合 | 91 | 456 | 90 | 503 | -1 | 47 |
和田 | 53 | 289 | 53 | 344 | 0 | 55 |
計 | 539 | 2925 | 530 | 3200 | -9 | 275 |
市域の人口は、各村とも一九人から五五人の増加を示している。この増加率は、各村で異なるが、一〇パーセント以上の人口が増加したのは、落合村(一〇・三パーセント)、一ノ宮村(一一・三パーセント)、東寺方村(一三・四パーセント)、和田村(一九・〇パーセント)の四か村になる。
多摩市域は平坦な土地が少なかったので、耕地の利用も制限を受けていた。各村では、早稲、中稲、晩稲、糯米、陸稲を栽培していたが、村によって作付面積が異なっていた。表1―3―7によれば、貝取村と落合村を除いた各村は、中稲の作付反別が最も多く、その割合は三六パーセントから五二パーセントを占めていた。また、早稲の作付をしていた村が四か村(連光寺、関戸、一ノ宮、東寺方)、陸稲の作付をしていた村が四か村(連光寺、貝取、落合、和田)それぞれあったが、その面積は少なかった。一反あたりの米の収穫量も、一ノ宮村は一・八五石であったが、貝取村と落合村は一・五三八石であったように、村によって異なっていたのである。
表1―3―7 明治19年作付反別 |
村名 | 早稲 | 中稲 | 晩稲 | 糯米 | 陸米 | 計 | 1反あたり収穫米 |
反 | 反 | 反 | 反 | 反 | 反 | 石 | |
連光寺 | 78 | 205 | 154 | 155 | 25 | 557 | 1.63 |
関戸 | 55 | 100 | 71 | 51 | 0 | 278 | 1.85 |
一之宮 | 55 | 112 | 63 | 47 | 0 | 277 | 1.85 |
東寺方 | 13 | 67 | 36 | 36 | 0 | 152 | 1.775 |
貝取 | 0 | 31 | 42 | 20 | 15 | 108 | 1.538 |
乞田 | 0 | 125 | 61 | 53 | 0 | 239 | 1.75 |
落合 | 0 | 120 | 169 | 99 | 23 | 411 | 1.538 |
和田 | 0 | 103 | 54 | 62 | 23 | 242 | 1.613 |
畑地の利用状況を表について見よう。市域の各村では大麦、小麦、裸麦の栽培をしていたが、一ノ宮村だけが裸麦を作付していなかった。連光寺村は小麦の作付面積が多かったが、他の村は大麦を中心に作付をしていた。とりわけ、一ノ宮村では、大麦の作付は七七・八パーセントに達していたのである(表1―3―8)。また、米や麦などの農業生産を行うためには、肥料が使用されていた。多摩市域(百草村を含む)の農家では、水産肥料の鰮搾滓(いわししめかす)を五八石から七二石、糠(ぬか)を一六八石から二一〇石を東京から仕入れていた(「水産肥料需用高調査 第一表、第二表」石阪好文家文書)。
表1―3―8 明治19年度麦・繭類取調 |
大麦 | 小麦 | 裸麦 | 繭 | |
反 | 反 | 反 | 反 | |
連光寺 | 152 | 175 | 104 | 60 |
関戸 | 160 | 113 | 59 | 30 |
一之宮 | 105 | 30 | 0 | 20 |
東寺方 | 115 | 75 | 34 | 28 |
貝取 | 151 | 136 | 99 | 25 |
乞田 | 154 | 151 | 88 | 30 |
落合 | 355 | 203 | 91 | 50 |
和田 | 265 | 189 | 65 | 40 |
このような農業生産を行っていた農家が松方デフレの直前にどのような構成になっていたかわからない。松方デフレのピークが過ぎた明治十九年の段階で、多摩市域(百草村を含む、以下同)の農家の構成は、専業農家が三九三戸(七五パーセント)、兼業農家が一三一戸(二五パーセント)であった。さらに、自作人が一一二人(二一・四パーセント)、自作兼小作人が三六二人(六九・一パーセント)、小作人が五〇人(九・五パーセント)であった。また、小作地率は、田が三七・九パーセント、畑が二五・九パーセントであった(石阪好文家文書)。
このとき、市域各村の農家構成は、関戸、東寺方、和田の三か村が判明する。すなわち、関戸村は専業二五戸、兼業二二戸、自作人一五人、自作兼小作人二五人、小作人五人、東寺方村は専業四五戸、兼業七戸、自作人二一人、自作兼小作人一七人、小作人一二人、和田村は専業四五戸、兼業八戸、自作人三二人、自作兼小作人一六人、小作人二人であった(石阪好文家文書)。市域全体の数値からみると、専業農家の割合は東寺方村と和田村が高く、自作人の割合は関戸、東寺方、和田の三か村とも高かった。とくに和田村の自作人の割合は、市域全体の三倍を示していたのである。
皇国地誌には、農間余業として養蚕や製糸を行っていたことも記されていたが、生産量は記載されていなかった。明治十八年は気候が不順だったので、春繭の産額は例年に比べて減少していたとはいえ、多摩市域では三七九戸の養蚕農家が四六四石余の繭を生産していた。市内で最も養蚕農家が多かったのは連光寺村であったが、繭の産額が最も多かったのは落合村であった。生糸は、このとき繭一石について約五〇〇匁が生産されていたので、市域の産額は二三二貫余となり、繭の産額が最も多かった落合村の生糸生産量は三九・八貫になる(表1―3―9)。
表1―3-9 各村養蚕戸数等取調(明治18年) |
村名 | 養蚕農家数 | 原紙枚数 | 繭産額 | 生糸産額 | 茶生産額 |
戸 | 枚 | 石 | 貫 | 貫 | |
関戸村 | 39 | 62 | 41.2 | 20.60 | 10 |
連光寺村 | 72 | 94 | 75.5 | 37.75 | 30 |
貝取村 | 42 | 64 | 43.7 | 21.85 | 12 |
乞田村 | 55 | 87 | 57.8 | 28.90 | 21 |
落合村 | 68 | 117 | 92.7 | 46.35 | 24 |
和田村 | 44 | 80 | 79.6 | 39.80 | 15 |
東寺方村 | 35 | 89 | 44.3 | 22.15 | 12 |
一ノ宮村 | 24 | 31 | 29.7 | 14.85 | 30.5 |
計 | 379 | 624 | 464.5 | 232.25 | 154.5 |
明治十九年一月四日、神奈川県は蚕糸業組合準則を布達し、郡・区ごとに取締所を設置する予定であった。翌月には南多摩郡蚕糸業組合が設立された。しかし、蚕糸業に従事していても組合に加盟しないものがあったらしく、四月二十四日、県勧業課から関戸村外八ケ村の勧業委員石坂戸一郎に未加盟のものがないように通達があった(「蚕糸業組合取締所設置ニ付業者加盟方通達并ニ戸長役場添状付状」石阪好文家文書)。南多摩郡蚕糸業組合に加盟すると、「養蚕証票」や「製糸証票」(図1―3―4)が交付されたのである。
図1―3―4 製糸証票
このころ、多摩市域では座繰製糸が広く行われ、関戸村藤井順次郎は、明治十七年から奥州、信州、上州の製糸場から学んだ座繰製糸をはじめたという。なお、生産された生糸は八王子で売却されていた(「生糸申告書」藤井三重朗家文書)。
明治二十年三月十二日、一府九県連合繭生糸織物共進会規則書が制定された。共進会は同年十月から一か月間開催され、生糸出品者として七か村一〇人(落合村横倉桑次郎、横倉作次郎、川井順蔵、百草村増島太兵衛、貝取村浜田源輔、連光寺村小形清左衛門、東寺方村伊野栄三郎、関戸村藤井順二郎、和田村峰岸伊三郎、真藤弥左衛門)、繭出品者として連光寺村富沢政賢が予定されていた(「共進会出品予約取調書」石阪好文家文書)。
茶の生産は、明治十八年は前年と比べて二割増しの生産量となり、市域では一五四貫余が生産されていた。茶の生産量が多い村は一ノ宮村と連光寺村であり、両村は、市域で生産量が少ない関戸村の三倍も茶を生産していたのである(表1―3―9)。