多摩市域の主たる産業は米や麦などの主穀生産であったが、繭や生糸などを生産していたので、これらに関連する仕事に従事する人々もいた。
明治十八年のとき、多摩市域(百草村を含む)にいる商人は、すべて兼業の商人であり、専業の商人はいなかった。兼業の商人のうち、卸売商は米商が三人、生糸商が四人、仲買商は生糸商が八人、それに質商が九人であった。このほか、商業に従事していたものは、菓子商が三〇人、酒商が一四人、売薬商が七人、煙草商が四人、豆腐商が三人、旅籠商が二人、古道具商、古着仲買商、油小売商、傘商、付木商が各一人であった。当時、これらの職種は雑商に区分され、全部で一一種類にのぼり、六五人いたのである(「商人営業区別 明治十八年十二月調」石阪好文家文書)。
多摩市域(百草村を含む)には、明治十八年船が七艘(漁船および小廻船三艘、免税船四艘)あった。このころには関戸村に渡船場があり、渡船の営業を行っていたので、七艘のうち三艘が多摩川で舟運業を行っていたのだろう(「明治十八・十九年分諸産業取調に付上申書」石阪好文家文書、「日々上り金収納簿 第二号」藤井三重朗家文書)。
多摩市地域では、明治から昭和にかけて農業の合間に目籠(めかい)(竹の器)作りも行われていた。落合村田中善次郎は、明治十六年ごろから目籠の注文を葉書でも受けていた。葉書による目籠の注文は、二十六年まで続き、注文先は、芝、日本橋、川崎、厚木、川越、所沢、静岡県三島にも及んでいたのである。このほか、和田村の峰岸伊三郎は、明治十二年には目籠卸商として、同十六年には生糸と目籠を取り扱っていた記録があるが、十九年ころにも目籠卸商に従事していたかはわからない(「明治十二年自一月至十二月目籠売上高取調書」、「明治十六年 諸進達書扣簿」石阪好文家文書、多摩市史叢書(11))。
また、市域には工場が三つあった。このうち、二つは撚糸工場であり、貝取村の岩崎栄三郎と市川芝之助か経営していた。二つの撚糸工場では五人が働いており、人力で器械を動かし、三七貫目の製品を製造していたのである。その代金は、一年間で一一五二円余であったという。もう一つは、乞田村の小磯兼吉が経営する傘の工場であり、職人が一人で一〇〇本を製造していた(石阪好文家文書)。これらは、従業員の数からいって、工場の規模も小さいものであろう。