図1―3―5 (明治後期頃)江戸川筋御猟場出張中の宮内省職員
この時期に、このように数多くの御猟場が設定されている背景の一つとして、地租改正事業の完了、明治十四年政変後の自由民権運動の高揚に危機感をもって、皇室の基盤を固めようとしていた侍講元田永孚や参議佐々木高行らが、すべての土地や空間は天皇のものであるという王土論を再び活発化させたことが考えられる。一方で、地租改正によって人民が土地を私有することになっていた現実を前に、伊藤博文らは、皇室も土地財産を私有して皇室の基盤を確立すべきだという皇室財産設定論を唱えていた。人民の土地私有権を認めつつ、その民有地の上に設定できる御猟場は、この双方の対立に関係なく設定でき、しかも皇室関係地を創出できるメリットがあったと思われる。また、別の背景として、条約改正問題が考えられる。各地に御猟場が設定されはじめていた明治十五年四月は、ちょうど東京で行われていた条約改正予備会議の最中であり、外務卿井上馨が交渉の任にあたっていた。井上外交は、条約改正交渉促進のために欧化政策をとっており、外国貴賓の接待にも利用する目的で、西欧諸国の王室が設置していた御猟場をこの時期設定したことが考えられる。もう一つの背景として、立憲制を確立する準備として、能動的君主としての天皇イメージを広めることを企図して、明治政府によって設定された側面も考えられる。
「連光寺村御猟場」も、こうした背景のもと、広範囲にわたる民有地に設定された御猟場の一つであり、市域の人々は、多くの影響を受けることになる。