明治十四年(一八八一)二月八日、天皇の命を受けた山口侍従長ら四人が府中駅戸長有竹利三郎の案内で、連光寺村の富沢政恕宅(県会議員)に予告もなく突然来訪し、村内の向岡から舟ヶ台西通りあたりの山林で兎の棲息調査をした。その後の八王子付近の村々、青梅、飯能、所沢などでの狩猟調査結果とあわせて天皇に報告したところ、十八日に八王子付近で狩猟をすることが命じられた(沼謙吉「多摩聖蹟記念館への道」『ふるさと多摩』5号2頁)。
その天皇狩猟行幸の予定ルートには、当初、連光寺村は組まれていなかった(資三―151)。しかし、十六日にその行幸の先発の米田、山口両侍従長をはじめとする宮内省属官、岡田陸軍中佐らの総勢一八人が連光寺村に兎試猟に来て、村人一五人を狩勢子に動員して、兎六羽を捕獲している。試猟後、宮内省より別仕立の馬車で、天皇の命を受けた官員一人が来て、今日捕獲した兎は天覧に供するので直ちに送るようにと達した(資三―151)。この達を受けて、米田、山口両侍従長は、直ちに兎六羽を天皇のもとへ送った(資三―151)。
このように、十六日に兎試猟を行っていることに加え、さらにこの日の試猟報告を受けるのを待たずに、天皇が官員を馬車で急行させ、そのような指示を出したことは、天皇の連光寺村への関心が非常に高かったことを意味するものと思われる。連光寺村は、この時すでに天皇―宮内省によって今回の御狩行幸先の候補地として考えられていたといえよう。