午前二時、急ぎ戻ってきた政賢、芳次郎から報告を受けた政恕、戸長小金は、すぐに達を村内に飛ばした。それから、深夜にもかかわらず村民が招集され、籾(もみ)による道路舗装など、午前七時まで諸準備に追われた。行在所となる富沢政恕宅の門前には紫縮緬に菊花を染め出した幕を掛け、双竹、榊が建てられ、しめ縄を張り国旗が建てられた。玄関には紅白錦の幕を張り、奥の間には玉座が設置された。そして錦旗が入り、続々と諸官が到着し天皇を待った(資三―151)。
天皇は、二十日午前八時に八王子行在所を輦(れん)で出発し、日野駅から愛馬「金華山」にまたがり、神奈川県川井一等警部を先導として、近衛将官三人、天皇、東伏見宮、北白川宮、侍従長米田をはじめ宮内省官員数十人という順の行列で、正午には連光寺村の政恕宅に到着した。昼食後、午後一時、政恕宅を「金華山」で出馬した天皇を、政賢の案内により神奈川県警部川井が先導した。天皇のあとには宮内省官吏、将校、巡査らが供奉し、第一狩場の字向岡に向かった。ここには幕末、富沢政恕らが植樹した桜林があり(通一949~951頁)、天皇はここからしばし、馬上より秩父連山、赤城、日光、筑波の諸山を眺望し、眼下に多摩川の流れをみおろした。それから「金華山」を桜樹に繋ぎ、頂上地点にある向岡中央の玉座に着いた。そのそばに紅色大旗を建て、玉座の目印とした。また、玉座の近くに兎を生け捕るための網を設置した。その両端には紅白の旗を建てた。狩場全体の司令長官は、岡田陸軍中佐であった。また、狩場掛となって網のそばについた連光寺村の小金寿之助、小形清左衛門ら六人が同村やその周辺の関戸村、貝取村、一ノ宮村、程久保村から狩場勢子として集められた約一五〇人の総指揮をとった。勢子の中にあって直接狩場勢子を指図したのは、「十人長」である。十人長とは、一五〇人の勢子を分けた各隊ごとの勢子頭のことである。第一の喇叭(らっぱ)の合図がかかるや、十人長たちは、配下の勢子を静かにさせ、第二喇叭によって、勢子を引かせて山麓を遠巻きにさせ、兎を追う態勢を整えた。そして第三喇叭によって、十人長がもっていた赤色小旗を振るやいなや、約一五〇人の勢子は、一斉に喚声をあげ、各自、手にもっていた棒で地面を打ちつつ、鯨波のごとく山上の玉座前の網をめがけて山を登りつつ、兎を追い込んでいった。天皇に供奉してきた東伏見宮、北白川宮も狩場勢子とともに、山を登っていたが、両宮が山腹に至ったころ、玉座前の網に飛び込んだ兎を、米田侍従長が直接生け捕りにし、天皇の御前に差し出した。天皇は続いて第二狩場(字向岡内、旧赤坂三十両山)、第三狩場(字天井返り)、第四狩場(字山ノ越)などで、兎狩を実施し、天皇一行は夕方には政恕宅に引き上げ、午後六時五十分には、府中駅に向けて出立した(資三―151、富沢政恕「向岡行幸記」『連光聖蹟録』)。このように、連光寺村での兎狩天覧は、その決定から終了までわずかの出来事であったが、この後の連光寺村と周辺村々の御猟場指定の重要な要因となった。
図1―3―6 明治の頃の連光寺村全景