多摩川鮎猟の天覧

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同年六月二日、明治天皇は再び同村を訪れ、多摩川鮎猟を天覧する(資三―147)。この日、午前七時三〇分、天皇は赤坂仮皇居を出発し、東伏見宮、北白川宮や徳大寺宮内卿、杉宮内大輔、富小路侍従らの宮内省官員や近衛将校、儀杖兵などの供奉のもと、午後一時三〇分に、連光寺村の多摩川河原の一ノ御仮屋に到着し、ここを玉座とした(富沢政賢「連光寺村多摩川の鮎御漁」『連光聖蹟録』)。
 この日の鮎猟天覧の漁場総裁・案内役には富沢政恕が、漁場御用掛には、小金忠五郎、富沢政賢、富沢英三郎、漁場周旋方には富沢芳次郎ら五人があたり、これらの人々が諸事にわたり指揮をとった(資三―149)。また、この日、行われた鮎猟法は、撥網(はねあみ)(羽子網、浚網)、鵜飼、投網の三種類であった。
 撥網は、細い絹糸で編んだ叉手網(さであみ)を漁夫がそれぞれ一帳ずつ持ち、三人一組となり、川の流れを横断するように、下流に向いて居並ぶ。その前から、藁縄に山楠の葉を結び付けた「シラ縄」を張りつつ、曳人夫をして流れに従って曳き下げて、遡上してくる鮎を追う。鮎は、障害物があると、水面を飛び跳ね上流へ登る性質があるため、鮎が山楠の葉の光に驚き、上流へ向かって水の上に撥ねあがったところを撥網で掬(すく)い捕り、網の袋に入れる漁法である(富沢政賢前掲書、民―225~226頁)。また多摩川での鵜飼は、長良川のように夜間に船上から行う鵜飼ではなく、昼間に徒歩で川の中に膝まで入って行う。鵜匠は、二羽の鵜を川中に入れ、自分の後ろすねに長さ三〇尺幅二尺位の網におもりがついた曳網を掛け、徐々に下流へと下る。流れをさかのぼってくる鮎は、この曳網に驚いて鵜匠の足元に集まるところを鵜に捕らせるのである(富沢政賢前掲書、可児弘明『鵜飼』、民―228~229頁)。投網は、多摩川では大きな鮎をとるのに用いる。船に乗り、深水の所に網を打ち込み、同時に漁夫が飛び込み水中で網を寄せ曳き上げる漁法である(富沢政賢前掲書)。

図1―3―7 関戸河原あたりでの投網

 この日、連光寺村をはじめとする周辺村々から動員された漁夫およそ一〇〇人を、以上のような各種鮎猟法ごとに、撥網(浚網)は一〇組、鵜飼は四組に編成した。投網は一五提を漁夫一五人が担当した。このうち鵜飼四組は、四ツ谷村(現府中市)鵜匠市川斧右衛門たちで一組、新井村(現日野市)に住む鵜匠たちで三組を編成した。
 午後二時から、玉座を中心にして、上流は一ノ宮渡船場から下流は大丸堰までの間を漁場として鮎猟が始められた。この漁場となった多摩川べりは、一般の見物で埋め尽くされたという。天覧鮎猟は、撥網(浚網)五組、鵜飼四組、連光寺、関戸村などから雇上げた漁船五艘に分乗した漁夫による投網一五提の順番で、繰り返し行われた。第一番目に漁業を行った撥網の組が、大きな鮎三尾を掬い捕った。これをみた天皇が沙汰を出すと、漁夫富沢嘉平が呼ばれ、鮎が飛び跳ねている叉手網をそのまま、荻侍従に手渡し、侍従も同じく、そのまま天覧に供した。続く鵜飼の組が、漁をしているのをみて、天皇は再び沙汰を出すと、鵜匠市川斧右衛門が呼ばれ、玉座前の流水生簀(いけす)の鮎で、実演をしてみせた。次に投網の漁船隊が、玉座前に進み、船列を整え一斉に一五提の網を投げると、漁夫一同はすぐさま水中に潜り込み、網にかかった鮎を曳き上げた。こうしたことが繰り返されるうちに、天皇は沙汰を出し、宮内省官員たちにも実際に漁船に乗って投網を行わせ、午後四時には漁を終えた。この日の収穫は鮎一一五尾であった。午後六時には天皇は還幸の途についた(富沢政賢前掲書)。