図1―3―8 連光寺村御猟場区域変遷略図(明治15~20年)
表1―3―11 連光寺村御猟場職員一覧(明治15年~18年)
「連光寺村御猟場官吏履歴書」(富沢政宏家文書)より作成。
注)職名の下に示した年月日は、当該職に任命された年月日である。人名の下に示した( )内の名は、旧姓名を示す。職名のあとの(県)は神奈川県による任命を、(宮)は宮内省による任命を示す。
さらに、翌明治十六年四月十日から、標杭が二四八か所に建てられ、「御遊猟場」区域が地域の人々にも目にみえる形で示された。同月十二日に宮内省官員が標杭の見分に来たが、この際、大丸村、百村、坂浜村、黒川村内で二〇〇町歩程の未指定の場所を「御遊猟場」に編入し、区域が拡張された。この拡張にともなって、五月二十六日には、前年、県により「御遊猟場」取締に任命されていた富沢政恕は、宮内省より同省御用掛を命じられ、「判任」と同等の扱いを受けることになった。つまり、宮内省の下級官吏と同等の扱いを受けることになったのである。そして、同日、宮内省より、改めて、「御遊猟場」取締に任命された(表1―3―11)。
七月六日には、それまで通称されていた「御遊猟場」を、実際に天皇が兎狩をする場所の村名をとって「連光寺村御猟場」との名称に正式に定めることが達せられた。また、十二月二十七日には、宮内省から鳥見が三人任命された(表1―3―11)。