連光寺村御猟場の成立

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翌明治十五年(一八八二)二月十日には、宮内省官員によって再び兎試猟が行われ、十五日には天皇が連光寺村へ到着し、富沢政恕宅を行在所として、翌日と二日間にわたって兎狩を天覧した(資三―147)。同月二十八日、連光寺村山野を天皇「御遊猟場」に指定する通達が神奈川県より同村に届いた(資三―147)。三月に入り、連光寺村、乞田村、貝取村、黒川村、坂浜村、百村、大丸村の七か村が「御遊猟場」区域と決まり、十八日には、一ノ宮村、関戸村、東長沼村の飛地分も編入することになり、「御遊猟場」としての区域が定まった(図1―3―8)。これら村々は同年五月三十一日に神奈川県から正式に「御遊猟場」指定の告示を受け、六月六日には、富沢政恕は県から、御遊猟場見回人取締に任命された。同日、「御遊猟場」見回人も区域内各村から一人ずつ、県より任命された(表1―3―11)。さらに同日には、同県から区域指定村々において銃猟禁止の布達がなされ、八月末から九月にかけて県官や宮内省官員による禁猟制札の建設場の下調査が取締や見回人とともに開始され、十月十五日には二八か所すべてに制札が建てられた。

図1―3―8 連光寺村御猟場区域変遷略図(明治15~20年)


表1―3―11 連光寺村御猟場職員一覧(明治15年~18年)
「連光寺村御猟場官吏履歴書」(富沢政宏家文書)より作成。
注)職名の下に示した年月日は、当該職に任命された年月日である。人名の下に示した( )内の名は、旧姓名を示す。職名のあとの(県)は神奈川県による任命を、(宮)は宮内省による任命を示す。

 さらに、翌明治十六年四月十日から、標杭が二四八か所に建てられ、「御遊猟場」区域が地域の人々にも目にみえる形で示された。同月十二日に宮内省官員が標杭の見分に来たが、この際、大丸村、百村、坂浜村、黒川村内で二〇〇町歩程の未指定の場所を「御遊猟場」に編入し、区域が拡張された。この拡張にともなって、五月二十六日には、前年、県により「御遊猟場」取締に任命されていた富沢政恕は、宮内省より同省御用掛を命じられ、「判任」と同等の扱いを受けることになった。つまり、宮内省の下級官吏と同等の扱いを受けることになったのである。そして、同日、宮内省より、改めて、「御遊猟場」取締に任命された(表1―3―11)。
 七月六日には、それまで通称されていた「御遊猟場」を、実際に天皇が兎狩をする場所の村名をとって「連光寺村御猟場」との名称に正式に定めることが達せられた。また、十二月二十七日には、宮内省から鳥見が三人任命された(表1―3―11)。