このように御猟場の区域及び職制が整備されるなか、明治十六年(一八八三)十二月二十七日には、御猟場区域の監視(見回り方法、現況報告方法など)、狩猟(狩猟の回数、期間の規定、狩猟者の規定、狩猟手続き方法など)、御猟場維持経費支出規定などを示した「連光寺村御猟場規則」が宮内省によって定められた(資三―154)。同日、この規則とともに、御猟場取締職務、見回人職務などを規定した「連光寺村御猟場監守規則」もあわせて定められた(資三―155)。
これらの規則によれば、御猟場は、宮内省御用掛―取締―見回人・鳥見という指揮系統によって管理、運営され、取締以下は、御猟場内を三区域に分け、総監するとされている(図1―3―8)。その主な職務内容は、天皇、御用掛や侍従などの狩猟準備、鳥獣類の繁殖調査、有害鳥獣の捕獲、密猟者取締である。また、区域内住民から所有耕地、作物などを荒らす鳥獣被害の訴えが起こった場合の現場対処を行い、御猟場内での以上の職務の結果や現場の状況を、宮内省御用掛に報告するとされている。宮内省御用掛は、天皇臨幸や自らの試猟出張などの達を初め、取締からの報告に対して協議を行い、取締に対して指揮を行うとされた。富沢政恕は取締ととともに宮内省御用掛も兼務しており、現場と宮内省の結節点としての位置にいた。見回人は神奈川県による任命ではあったが、宮内省の指揮系統下にあった。
宮内省指揮系統以外にも、神奈川県―警察官による御猟場監督の規定もあったが、それは補助的なものであり、原則的には連光寺村御猟場は、御猟場維持に関わる事務に関しては宮内省及びその指揮系統によって管理・運営されることとされたのである。そのため、維持経費も「帝室費」から、年一〇〇〇円が支出されるとされた。
また、天皇の御猟場ではあったが、「連光寺村御猟場規則」によって、天皇や宮内省職員などの狩猟には一定の制限がつけられた。例えば、同規則によって、出猟は毎年四回に限り、狩猟期間は十月から四月までと限定されている。また、天皇が御用掛の他に、特別に侍従などに同所での狩猟を許可する場合でも、二人と限り、鳥猟許可証札を携帯させ、必ず御用掛一人が付き添うこととされている。
従来、御用掛が御猟場事務を担当していたが、翌明治十七年(一八八四)一月二十三日には、宮内省内に御猟場事務を専門に担当する「御猟場掛」を設置し、取締―見回人・鳥見は同掛の指揮下に入った。この後、表1―3―11に示したように、現場での御猟場職員の職名の改称があった。明治十八年(一八八五)六月には、取締長以下を廃止し、監守長と監守が設置され、両職ともに宮内省任命で同省御用掛となった。