天皇と村びと

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御猟場職員となる地域名望家層は、天皇行幸、御猟場設定によって、天皇権威を地域へ浸透させていく役割を担った。例えば、明治十四年(一八八一)の兎狩天覧後、富沢政恕は天皇の愛馬「金華山」を繋いだ桜樹を「御駒桜(みこまざくら)」(図1―3―9)と称し、建札、矢来垣を設置し、「聖蹟」化をはかりはじめている。また、同年の鮎猟天覧後、富沢政恕父子は、天皇から銀盃を下賜されるが、その盃の「開初」として、鮎猟天覧に携わった連光寺村の小前の人々にも酒を振舞い、村会議員や教員などは、自邸に招き酒宴を開催している。さらに銀盃下賜の感激を政恕自身で詠んだ「天盃恩賜の歌」を自宅で上梓し、版木で刷って同好の士に配布している(『連光聖蹟録』)。

図1―3―9 御駒桜

 こうした名望家層を通した天皇権威の浸透ルートとは別に、一般村民が直接、権威を受け入れる機会もあった。例えば、天皇による兎狩や鮎猟の天覧が終わると、官民一同、狩場勢子や漁夫、船夫や諸雑務員として動員された各村の一般村民に至るまで酒餞料が下賜される。一方で、実際に狩りや漁に携わらない人々も、兎狩天覧や、鮎猟天覧の見物者として参加しているが、その数は、第一回目の天皇兎狩時は、「老若男女路傍ニ充塞シテ」ほとんど立っている場所もないという状況であった(資三―151)。また、初めての天皇鮎猟のときにも、「群集大凡万ヲ以テ数フベシ」という状況であり(富沢政恕「向岡行幸記」『連光聖蹟録』)、この地域の一般村民の多くが、天皇に接しており、猟の天覧が多摩地域の村民の意識に与えた影響は大きかったと思われる。
 また、明治十七年(一八八四)の第三回目の兎狩天覧二日目、天皇は向岡で下馬し、連光寺村船ヶ台にある源頼朝腰掛松を見ている(『明治天皇紀』六、189頁)。この腰掛松は、頼朝がここで狩をした折に、この樹下で多摩川を眺めたという地域伝承を持つ松である。当時、もともとの松は腐朽し根株だけが残るのみであったが、その根株から三本の幹が出ていた。そして、村民は、その松を祀ると腰下の病に霊験があるといい、竹筒に酒を盛り、これを松樹に懸けて祀っており、その竹筒は常に数百本は懸かっていたという(中島利一郎「明治天皇と連光寺」『連光聖蹟録』)。この腰掛松に天皇が接触したことは、この旧跡伝承地を通して、それを信仰の対象とする一般村民への天皇権威の浸透が結果的に行われる可能性をもったと思われる。