生活規制と村びと

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多摩地域において、天皇権威の浸透のしくみが形成される一方で、御猟場成立とともに、御猟場内一般村民は、新たな生活規制と負担を強いられた。一例をあげれば、御猟場成立早々、区域内において「銃猟」が禁止された(資三―147)。「銃猟」禁止との布達であったため、区域内住民は、銃以外の鳥獣猟をやめなかったためか、県は明治十五年(一八八二)七月八日には、改めて同区域内における鳥獣猟禁止の布達を行った。しかし、御猟場区域住民たちは、生業としていたわけではないが、以前より栄養補給や遊びのために狩猟を行っていたようである。民俗調査によると、例えば、貝取村瓜生の人は、道楽として狩猟を行い、天皇の狩猟対象となった兎、雉子(きじ)をはじめ、ムジナ、鳩などをとったという(民―198頁)。道楽としての狩猟に加えて、田畑作物を荒らす有害鳥獣駆除の意味もあったであろう。そのため、御猟場が設定され、天皇権威を背景として、にわかに区域内での鳥獣猟が禁止になったところで、村民全員がすぐに従うものではなかった。御猟場設定及び鳥獣猟禁止直後から密猟者があとをたたず、しばしば御猟場見回人に摘発されている。その後も密猟者はあとを絶たなかった。密猟した獲物には兎が多い。明治十八年(一八八五)七月に摘発された者の自白によれば、「食用」のために兎狩をしたと述べている(資三―147)。貝取村瓜生では、兎は獣道にヒッククリと呼ぶわっかを仕掛けてとる方法だった(民―198頁)が、こうした兎の罠もいっしょに押収されることが多かった。連光寺村御猟場において兎は、天皇行幸のときにのみ狩猟できる獲物であり(資三―154)、いわば、天皇権威が付与された動物であったが、区域内の一般村民は、そうした権威を受け入れず、自分たちの伝統的習俗を容易に捨てなかったのである。
 さらに、各所に設置された御猟場区域を示す標杭が、設定後まもない明治十六年(一八八三)三月八日、何者かによって壊されている。この後も、しばしば標杭の損壊行為がみられる。
 消極的ながらも一般村民がおこした以上のような反抗的行為は、伝統的習俗としての狩猟を否定されたからといった問題に限らず、御猟場設定によって強いられた規制が一般村民の現実生活上、支障をもたらす要因となっていたからおこされたものであったと考えられる。御猟場職員らは、天皇狩猟の対象である兎や雉子、山鳥などの獲物を保護するために、その天敵である鷹や貂(てん)などの鳥獣類を捕獲した。そのため、早くも御猟場指定からわずか二年半後の明治十七年(一八八四)十一月には、兎が繁殖しすぎ、山畑の麦苗を食い荒らす被害が多発するなどの状況が御猟場取締から宮内省に報告されている。こうした御猟場指定が原因の農作物被害は、これ以後も御猟場取締(長)から宮内省へ毎年行われる「御猟場景況報告」で取り上げられており、一般村民にとって経済的被害が年々深刻化していたことがうかがえる(一編六章二節)。また、区域内一般村民は御猟場に、天皇や皇太后、皇后、皇太子、皇族などが狩猟や鮎漁に来るたびに(表1―3―12)、事前の会場準備として、仮屋の設置、道に藁や籾がらを敷き詰めるなどの道路整備(藤井三重朗家文書)や、当日の勢子の人足などの負担をしなくてはならず、貴重な労働力をとられることになった。
表1―3―12 天皇、皇族連光寺村御猟場狩猟等年表
(明治14年~大正2年)
月日 狩猟者 狩猟内容
明治14年(1881) 2/20 明治天皇 兎狩
東伏見宮嘉彰親王
北白川宮能久親王
明治14年(1882) 6/2 明治天皇 鮎猟
東伏見宮嘉彰親王
北白川宮能久親王
伏見宮貞愛親王
明治15年(1883) 2/15~16 明治天皇 兎狩
東伏見宮嘉彰親王
北白川宮能久親王
伏見宮貞愛親王
明治17年(1885) 3/29~30 明治天皇 兎狩
東伏見宮嘉彰親王
北白川宮能久親王
伏見宮貞愛親王
有栖川宮威仁親王
明治18年(1886) 9/22 昭憲皇后(明治天皇皇后) 鮎猟
明治20年(1888) 8/21 嘉仁親王(のちの大正天皇) 鮎猟
10/3 英照皇太后(孝明天皇女御) 鮎猟
10/17 嘉仁親王(のちの大正天皇) 栗の実・茸採取
明治21年(1889) 10/17 嘉仁親王(のちの大正天皇) 地理見学
明治25年(1890) 7/1 嘉仁親王(皇太子、のちの大正天皇) 鮎猟
明治26年(1891) 10/8 嘉仁親王(皇太子、のちの大正天皇) 鮎猟
明治33年(1900) 10/7 嘉仁親王(皇太子、のちの大正天皇) 鳥猟
明治40年(1907) 8/2 嘉仁親王(皇太子、のちの大正天皇) 鮎猟
明治41年(1908) 6/7 嘉仁親王(皇太子、のちの大正天皇) 鮎猟
明治42年(1909) 7/18 嘉仁親王(皇太子、のちの大正天皇) 鮎猟
明治43年(1910) 7/18 聡子内親王(明治天皇第九皇女) 鮎猟
大正2年(1913) 8/7 裕仁親王(皇太子、のちの昭和天皇) 鮎猟
注)『多摩の聖蹟』(多摩聖蹟記念館出版部、1931年)より作成。なお連光寺村御猟場設定以前の狩猟も含めた。

 こうしたことから、やがて一般村民による御猟場指定解除運動がおこされることになる(一編六章二節)。容易には地域のすみずみにまで天皇権威は浸透しなかったのである。