明治十二年(一八七九)九月「教育令」が発布され、近代日本の教育体制は新しい段階を迎えた。以後、明治二十三年の第二次小学校令制定までの期間は、国民教育制度確立への模索期ということができる。最初に、この時期の教育法令上の変化を概観しておこう。まず、社会の実情に適合しない「学制」の統制主義・急進主義を批判して、教育令が明治十二年に制定される。地方分権と規制緩和がこの法令の特徴で、「自由教育令」とよばれた。しかし、かえって混乱を招いたこともあり翌年十二月に教育令は改正される。民権運動の高揚の中、再び教育統制は強化され、儒教的な精神主義教育がおしだされた(なお、明治十八年(一八八五)八月再改正)。内閣制度が設置され初代文相となった森有礼は、明治十九年四月「小学校令」などいわゆる「諸学校令」を公布、国家主義を明確に教育政策としてうちだした。この改革は、立憲体制移行をにらんだものだったが、過渡的なものであったといわれる。
さて、この時期の多摩市域では、「学制」期に形成された学校運営上の地域の結びつきに大きな変化がみられた。長養学校の成立と解体がそれである。「富沢日記」明治十一年七月九日に、乞田村に乞田・落合・貝取・寺方の四か村共同の学校設立計画、関戸村の陶民学校廃止の記述がみえる。これは長養学校の設立準備過程の状況と考えられる。その数日後の十三日には、関戸村・寺方村・貝取村・乞田村・落合村の五か村により、長養学校の設立に関し「誓約証」がとりかわされた(資三―78)。それによれば、乞田村字谷戸根への校舎建築計画、分校の落合村設置が決定していたことがわかる。そして、この年に長養学校は設置され(資三―142)、それまでの陶民学校(関戸・寺方・貝取)と処仁学校(乞田・落合)が姿を消すこととなった。
だが、校舎建築に向けて実際に動きだすのは遅れ、明治十三年(一八八〇)十一月になってようやく翌年二月の建築着工が決定(四月落成予定)、具体的な経費負担案の提示は十二月となった(資三―140・141)。この間、長養学校は、一方で元処仁学校のあった乞田村吉祥院を、もう一方で元陶民学校のあった関戸村観音寺をそれぞれ長養学校の仮校舎としていた(資三―115・116)。つまり長養学校が設立されたといっても、内実は陶民、処仁両校を引き継ぐ二校の体制のままだったのだろう。
ところが、長養学校は明治十四年以降解体し、校舎建築は結局実現しなかったと考えられるのである。五か村は明治十四年四月十九日、落合、乞田、貝取各村分離と、この三か村による処仁学校設立の願を提出する(資三―142)。「土地遠隔」とそれによる通学困難と「怠学」がその理由であった(以下、初代の処仁学校と区別する必要がある場合は「(第二次)処仁学校」と表記する)。翌明治十五年二月には同三か村による学校設立伺が県令に提出され(資三―143)、十二月にこの(第二次)処仁学校は新築開校の運びとなる(資三―145)。一方、関戸村は明治十四年五月二十九日に向岡学校に合流した(「富沢日記」。東寺方村(明治十二年、寺方村を改名)の動向は不明な点が多いが、『多摩町誌』によればすでに明治十四年二月十四日、分離願を提出していたという。これがすぐに実現したのかどうか判断の決め手に欠くが、同年末の時点では昭景学校に属している(「昭景学校学区内聯合規則」『日野市史』史料集近代2)。
明治十一年から十五年にかけての、このあわただしい学校の再編過程は、本章一節にみた地方三新法の実施による地方自治制度上の改変と密接な対応関係にある。長養学校の学区を構成した五か村のうち、落合村を除く四か村は三新法実施で連合の戸長役場を構成していた。落合村が分校扱いであることを考えれば、実質的に戸長役場領域と長養学校の区域は一致する。そもそも「富沢日記」に、先述した長養学校の設立準備に関する記述がでてくるのは、まさに三新法が実施となり戸長役場設置が決定する時期なのである。そしてこの四か村の戸長役場は明治十五年段階では二分割され、貝取と乞田、関戸と東寺方がそれぞれ二か村の戸長役場を構成する。この戸長役場の再編期に長養学校は解体、新たに連合した貝取と乞田の両村は、落合村とともに(第二次)処仁学校を設立するのである。つまり、長養学校をめぐる問題は、当時の学校運営が町村やその連合組織との密接な関連におかれていたために起こったことが考えられるだろう。なお、和田村の生蘭学校分校(「支校」の存在が確認できる史料の初出は、明治十二年四月二十六日であり(資三―117)、同村高蔵院を仮校舎としていた。
この再編過程を経て、三新法体制下の多摩市域には次のような学校の学区による地域間のつながりができあがった。処仁学校(乞田・貝取・落合)、向岡学校(連光寺・関戸)、生蘭学校分校(和田)、昭景学校(落川・百草・一ノ宮・東寺方)の四つである。これが後の多摩村内における、各学校の学区という形での地域的結合の原型となる。