この三新法体制下の町村と学校運営の深いかかわりを、向岡学校を運営した連光寺村を例にみておこう。すでにみたとおり、連光寺村では当初一村で向岡学校を運営していた(関戸村が加わるのは既に述べた如く明治十四年五月以降)。資三―97・100は、明治十二年七月、三新法体制下最初の開催となった連光寺の村会に関わるものであり、資三―97からは議案と村会における修正の結果が、資三―100からは議案の村会での討議状況がわかる。ここにおいて重要な議題の一つが教育費をめぐる問題なのである。
学校の運営資金は先述の如く、小学校資本金利子によりまかなう形をとっていた。しかし、実際のところ年間およそ一五〇円かかる小学校費はこれではまかなえず、協議費(村限り費用)に明治十年度以来の不足分補充費二〇円あまりが計上された。また、今後こうした問題を解消するためとして、資本金額の一三〇〇円への増額が企てられた。こうした資本金利子は、戸長小金忠五郎によれば、教員である訓導や授業人の給与、「大試験」(卒業試験)や書籍器械代に充当されることとなる。教育関係雑費は戸別割(住民税)でまかなうとされた。三新法体制下、区町村独自の費用として設定された協議費の多くはこうした学校運営費であったといわれる。町村会の動向が小学校の経営を大きく左右するのである。
ところで、この村会では学校問題、特に資本金に関連して、たびたび「下川原」という地名が登場し、同地出身議員は向岡学校のみに関連する議論には加わっていない。何故だろうか。
多摩川を隔てて連光寺の北側に位置する下川原は、現在は府中市に属しているが、この当時は連光寺村を構成する集落の一つで、独立性が高く近世後期(一九世紀半ば)以降分村運動を展開していた(通一 六編一章四節)。この動きは明治時代に入っても継続し、明治十一年には下川原の府中(府中駅本町)合併要求という形で問題化する(渡邊尚志「幕末維新期における村と地域」『歴史学研究』六三八)。この際、府中駅本町への合併要求の一つの根拠とされたのが、まさに学校をめぐる問題だった(富沢政宏家文書 国立史料館蔵)。従来、下川原の生徒は川を渡らず(渡船を利用せず)にすむ「府中分校」(府中駅本町の府中学校の分梅分校か)に通学したが、一方、連光寺村の学校資本金(一〇〇〇円)の積立も分担し、その分担分の利子相当額を月々村に差出していた。下川原とすれば、直接関係しない向岡学校に関する費用を連光寺村という行政団体の一員ということで支払っていることになる。この府中合併問題は明治十二年三月十一日、連光寺村と下川原の間に示談が成立し、以後、分村分離要求をしないことが定められた。学校に関しては、下川原生徒の府中への通学は従来どおり、資本金の下川原積立分は分離、連光寺村への利子支払い廃止、となった。先の村会開催は、この示談のわずか数か月後のことだったのである。
学校とその運営は、重い経費負担や通学事情といったかたちで地域に利害が密着しているために、一般の行政を担う村が学校運営に関わったとき、ある種のズレを生むことがあるのである。連光寺村の場合、それは分村運動を再燃させる方向に働いたといえよう。また、ここでの分村要求が一村独立ではなく、通学域である府中への合併要求として立ち現れる一因として、地域が独自の学校運営(特に経費負担)を担うには一定の規模が必要だ、ということがあるのかもしれない。
確かに、独立した学校の運営はむしろ数か村の連合によることが多い。長養学校や(第二次)処仁学校、昭景学校などがそうである。こうした場合、教育費は村会ではなく学区の連合村会の場で別個に扱われることになる。例えば昭景学校を構成する学区四か村では、「学区内聯合会規則」が取り決められている(明治十五年一月九日認可、『日野市史』史料集近代2)。