学務委員の設置

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明治十二年の「自由教育令」で初めて設置された学務委員は、町村民公選制をとり学校運営に幅広い役割が与えられた。神奈川県は明治十三年(一八八〇)一月に学務委員公選法を示し、一町村・数か町村、もしくは郡区単位で一人~数人の委員を選出することとし、また同月学区取締を廃止した。南多摩郡では、戸長・学校世話役との協議(石阪好文家文書)という民主的プロセスを経て、郡を二分する組合で各一人を選出する方式に決定、明治十四年二月に選挙が行われた。選出されたのは土方圓と佐藤俊宣である(『日野市史』史料集近代2)。彼らは「南多摩郡学務委員」(石阪好文家文書)であり、学制以来の学区取締をまさに引き継ぐ存在だったといえる。
 一方、直接学校に係わっていたのは学制以来の学校世話役である。神奈川県は学務委員設置に先立ち、従来任命制だった学校世話役の扱いを届出制(明治十二年一月)→任意設置(明治十三年一月)と、制度上重視しなくなっていた。だが、南多摩郡では郡単位で学務委員を設置したため、郡内各町村では、各学校の運営に従来から携わってきた学校世話役が依然として必要だったのである。明治十四年四月段階での長養学校関係史料(資三―142)には、郡学務委員二人の他に長養学校に関係する各村一人ずつの学校世話役が確認できる。
 明治十三年十二月の改正教育令では、学務委員は準公選制となり戸長が学務委員に加えられるなど統制が強まった。これをうけて神奈川県は明治十四年八月に布達「学務委員薦挙規則」をだし、十月には従来の学務委員を廃止する。この改正により、原則として学校学区単位に学務委員が設置されることとなった。多摩市域においては、翌明治十五年五月一日、東寺方村の伊野銀蔵が昭景学校の学区学務委員に県から任命されている(伊野弘世家文書)。他の学区でも同時期に学務委員が任命されていると思われる。例えば、同年六月十二日の(第二次)処仁学校関係史料(資三―144)における三人の同校学務委員は、当時学区を構成する各三か村からでている。ここに至り、学制以来の学校世話役は姿を消すことになったのである。

図1―3―10 学務委員辞令(明治15年)