落川村外十六ケ村学区

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明治十七年(一八八四)の地方制度改革により、後の多摩村にほぼ相当する部分が「関戸村外八ケ村」戸長役場・連合村域として設定された。この広域的な組織は衛生や勧業においても役割を果たしたが、教育は全く含まれていない(表1―3―3)。この時期の教育を担ったのは、また別の広域的組織なのである。
 この年の九月四日、神奈川県布達甲第六八号により学区域が拡張される。多摩市域が関係する四校を含む、七校の関係十六か村は落川村(日野市)を中心とする一つの学区とされ、それは「落川村外十六ケ村学区」と呼ばれた(資三―146)。そして表1―3―13にみるように、この大きな学区が連合村組織として各学校の運営に関わったのである。学区は複数の学校を包括する複合的なものとなり、その連合村会で教育関係の経費が議員により討議された(富沢政宏家文書他)。これにより経費節減をはかり、当時のデフレ政策下の財政困難を切り抜けようとしたものといえよう。

表1―3―13 落川村外十六ケ村連合村費精算表(明治18年度)

 また、学務委員もこの大きな学区を単位としたものとなった。やはり学務委員にかかる人件費の削減が目的だろう。明治十八年(一八八五)四月十一日、「学区組合拾七ケ村学務委員撰挙」が行われ、富沢政賢は当選している(「富沢日記」)。だが、同年八月、来年度よりの町村費徴収の制限実施が布告され、教育令再改正により学務委員自体が経費節減を目的として制度上廃止となる。表1―3―13に示した明治十八年度精算表(明治十九年七月十九日提出)で、学務委員費支出は予算額を大幅に下回っているが、その理由はこの「学務委員廃員」であった。
 この大きな学区ではその後も連合村会が開催されたようだが(有山昭夫家文書に明治二十年の臨時連合村会議案がある)、一方で明治十九年度以降実質的意味を失い、再び各学校単位での運営になっていくものと思われる。「落川村外拾六ケ村学区各校経費支出議按」(伊野弘世家文書)には、明治十九年度以降各学校ごとに経費を負担、収支を各学校を維持する各学区の連合村会(一村のみの学区は村会)の「評決ニ任ス」とされているのである。どう決議されたかは不明だが、各学校の実情に応じた学校運営の要求が高まっていたことがうかがえる。