「学制」期の明治九年における試験の状況を、「富沢日記」にみてみよう。四月二十九、三十日の両日、長沼小学校を会場とし、向岡・陶民・潤徳・平・落川(分校か)の五校合同で春の試験が行われた。当時、向岡学校の下等小学七級であった富沢政恕の次女「たか」(高子)は、三十日に試験をうけ合格している。十月九、十日の両日には、大円学校を会場に向岡他四校合同で秋の試験が行われ、政恕は生徒をつれてでかけている。この試験で高子は合格し五級に進級、試験成績優秀につき賞与があたえられている。以上のように、春秋の試験が数校合同で行われ、半年ごとに進級していったのである。
だが、富沢高子のように全員が順調に進級するわけではない。むしろ落第による留年が多いのである。これを明治十年代後半、三級制下の(第二次)処仁学校の史料にみてみよう(寺沢茂世家文書)。向岡・潤徳・昭景・処仁・平山の五校合同で行われた試験に、処仁学校からは七七人が受験している。その内、落第したのは実に一八人(二三・四パーセント)であった。最下等の初等六級の受験者一〇人中、落第はなんと四人。いかに合格して進級することが難しいかがわかる。なお、同じ試験で向岡学校と昭景学校では約三割が、潤徳学校では二割弱が落第していた。そして、留年は生徒を学校から遠ざけることになろう。この史料からは処仁学校の生徒数も判明するが、これによれば当時の同校生徒数一〇〇人中、「常ニ不参」は一割にのぼる(男子は七・四パーセント、女子は一五・六パーセント)。
明治十年代後半期の就学状況を、明治十五年の(第二次)処仁学校の場合にみてみると(資三―144)、就学率は六三・八パーセントで、男子は七九・五パーセント、女子は四一・三パーセント。「学制」期(表1―2―20)の処仁、陶民学校の就学率と単純に比較すると、全体に向上したとはいいがたいにせよ、女子の就学率が向上し男子との差が縮まったことは注目すべきだろう。ただ、当時の生徒数九八人中、男子六四人に対し女子三三人と依然として半分にすぎない。また、生徒数は初等科六年から中等科五年まででその九割を占め、中等科三年に男子四人、高等科は四年に男子が一人いるのみである。つまり、当時学校に通うのは、四年間が一つの目安だったといえよう。
近代教育の導入において、教科書などの教材はどうだったのだろうか。「学制」期、小学校低学年においては教科書よりも掛け図が重視されていた。現在のような補助教材などではなかったのである。処仁学校に設置されていたと思われる「夜学」の明治九年における書籍等購入物リスト(有山昭夫家文書)には、「単語図」「連語図」「色図」といった文部省発行の掛け図の名が多数確認できる。もちろん、教科書も使用した。明治七年(一八七四)、処仁学舎で購入された教科書には「童蒙解」「単語篇」「洋算早学(はやまなび)」「絵入ちゑの環」といった、文部省が「小学教則」(明治五年九月)で選定したものや、福沢諭吉の「西洋事情」「学問(の)すヽめ」といった、啓蒙家の書籍などがみえる(資三―73)。なお、学校で教科書を購入しているのは貸与するためだからなのだろう。生徒の方で教科書を購入するのは、なかなか容易なことではなかったことをここにうかがうことができよう。
図1―3―11 掛図をつかった授業風景
このように「学制」期の教科書が多彩なのは、自由発行・自由採択だったからである。しかし、明治十年代にはいると、民権運動の高まりのなか支配層は教育政策の統制を強め、教育令を改正する一方で儒教主義的な修身教育を重視するようになる。そして、文部省は明治十四年(一八八一)、教科書自由採択制を廃止して届出制とし、明治十六年には認可制として教科書統制を強化する。同時期、文部省は教科書調査も行っている。そして明治十九年(一八八六)、小学校令等制定の翌月である五月に「教科用図書検定条例」が制定される。教科書検定制度のはじまりである。