漢詩は江戸時代には広く一般に普及し、詩を作る人は多かった。ことに江戸の後期は漢詩の全盛期であった。この時代は幕府の文化政策と各藩の奨励などにより、文化の爛熟期で、明治に入っても漢詩は盛んであった。儒教主義に育てられた日本の伝統と、男性文字としての漢語を用いる漢詩は、自らの思想・感情をのべるのに最も適した詩形であった。維新の元勲・高官・志士はみな詩をよくした。
江戸後期の漢詩は荻生徂徠とその門下による古文辞格調派と呼ばれる詩風が全体を占めていた。この詩風は中国の古文辞の復古主義から生まれたもので、『唐詩選』が日本で読まれるようになったのは服部南郭らによるところが大きかった。この古文辞派の人々は詩の古語にたよりすぎて、すでにできているものを模倣するあまりに、詩情に乏しく欠点も目立ってきた。
このような風潮の中で人の心はみな異なり、人の心はつねに変化していると、個性に基づいて模倣をしりぞけて、自らの目でとらえて詩を詠もうとする新風が起こった。これが山本北山(一七五二~一八一二)の性霊説である。天真の詩とも清新の詩ともいった。北山は著書『作詩志彀』の中で「凡ソ詩ハ趣ノ深クシテ、辞ノ清新ナランコトヲ要ス」「詩道ハ性霊ヲ主トス。格律ヲ主トスベカラズ」と述べて性霊説を唱えた。性情の霊妙な活用を貴ぶの意である。
元来この性霊説は中国明時代末(一六〇〇年ごろ)袁宏道(字は中郎・一五六八~一六一〇)の唱えたものである。多摩地域に広まった生花の流派である袁中郎流(資二(2)309頁)は、袁中郎の『瓶史』の影響を受けたもので、望月義想(一七二二~一八〇四)が創流したものであった。義想は江戸の人で上野不忍池の西に住み、華号を梨雲斎といった。関戸村相沢五流の長男伴主(一七六八~一八四九)は袁中郎流に入門後一一年目で奥儀を許され允中流を創流した。地域農村の現状に即した雅俗併用の立場をとったものとされている。義想の門人桐谷鳥習(生没年不詳)は、『瓶史』に克明な注をつけて『瓶史国字解』(『小山晶家文書(二)』多摩市教育委員会)を刊行した。これには山本北山ほか性霊派の詩人や大田南畝も序文を寄せている。袁中郎流と深く関係していることを知ることができる。民衆の詩を唱えた性霊派の詩と、貴族や上層の武家のものであった「生花」を地方の人々の間に普及させた袁中郎流の「生花」も「性霊ヲ主トスル」ということで源は同じだったのである。
北山の門人梁川星巌(一七八九~一八五八)はこの性霊説を継承したが、星巌の没後、江戸の漢詩壇の指導者の一人となったのは大沼枕山(一八一八~一八九一)である。枕山は多摩地域の指導者層である豪農たちに招かれて、漢詩の作詩・添削を行い性霊派の影響を与えた。枕山については永井荷風著『下谷叢話』に詳しく記されている。