多摩市域における漢詩人の中心的存在は富沢政恕であった。自らが書いた『富沢政恕之歴伝』によると、「漢籍ヲ内藤重喬翁ニ学ビ 翁没後佐藤一斎ニ学ブ 詩文章ヲ小野湖山ニ正シ」とある。政恕は一五歳で名主見習役を命ぜられ、漢籍・詩文・国典・和歌・剣法など指導者としての素養を授けられた。
政恕の詩文章の師である小野湖山(一八一四~一九一〇)は初め姓を横山といい後小野と改姓した。湖山は近江国の人で、江戸に出たのは一九歳の時であった。江戸で梁川星巌が主宰した玉池吟社に入り詩を学んだ。同門の遠山雲如・枕山らと親交を結んだ。安政四年の『安政三十二家絶句』に星巌・枕山とともに名を列ねている。その中に湖山横山先生とあるから小野姓に改められたのはその後のことである。
政恕が湖山より指導を受けた天保十年(一八三九)前後は、星巌門下で盛んに作詩に専念していた時期である。湖山は政恕より一〇歳の年長であった。政恕が湖山からどのようにして詩を学んだかは不明であるが、湖山三七歳、嘉永四年の頃は三河豊橋の城主に招かれて藩政に参画し、儒臣として仕え江戸を離れていた。維新後は朝廷から招かれたが官途につかず、明治五年上京し上野池の端に居住し詩友と交わり明治四十三年九七歳で没している。政恕が没して三年後である。江戸にいた時期政恕との交流があったのか富沢家文書中には見出せない。湖山の経歴からみると政恕が湖山より詩文章を学んだのは、若い頃の一時期のことではなかったかと考えられる。
幕末から明治期にかけての地域の豪農たちの漢詩の学び方はどういうものであったのであろうか。色川大吉編『民衆文化の源流』の中におさめられた論文、渡辺奨「一豪農儒教主義者の明治維新」によれば、制作の方法を①江戸漢詩または在地の漢詩人に直接に手ほどきを受け、創作したものに添削を受ける。②豪農らが漢詩壇をつくり、題を出し合い創作し互いに批正しあう。③ひとり自ら興にまかせて制作する、の三つに分類されている。政恕の場合は、市域の門人(資三―162)に作詩の指導・添削を行い、自らも興にまかせて作詩をしていたようである。つまり②としてである。
政恕は若い頃は性霊派の漢詩人の一人であったが、明治天皇の連光寺村への行幸の時期からより一層、皇室への尊崇の念を深めていった。これに対し大沼枕山は明治二十四年七四歳で死去するが、それまで髻(もとどり)を切ることはなく江戸の遺民として自ら任じていた人であった。周辺の豪農たちは性霊派の影響で、詩の指導を受けていたが、多摩市域が枕山との結びつきがなかったのはこのようなことに起因すると考えられる。
次に大沼枕山の影響・指導を受けた多摩地域の漢詩人たちについて述べていくことにする。まず小野路村の小島家一八代小島政敏は山本北山より「博愛堂」の扁額を贈られている。二〇代為政(慎斎)は性霊派の詩人雲如に師事し、枕山に添削を請うている。二一代守政(韶斎)は枕山に師事している。小野路の守政・石阪昌孝・若林有信ら地域の指導者である豪農知識人には枕山グループがあったと『町田市史』は記している。谷保村の本田退庵(一八五三~一九二二)は、詩文を枕山より学んでいる。小野路村の小島家・橋本家と、谷保村の本田家はともに姻戚関係にあり、みな詩文をよくし性霊派の流れを汲む人々である。
窪素堂は東長沼の出身で初め僧侶であった。漢学を昌平黌に、詩は枕山の下谷吟社に学んだ。東長沼の常楽寺にあった郷学校教授を勧めた教育家であり、その著作に『古素堂詩鈔上・下』がある。
溝口桂巌(一八二〇~一八九七)は相州津久井郡千木良(相模湖町)の出身である。代表作『墨水三十景詩』は明治十九年に成ったもので、三〇景に小記を付して七言絶句三〇首を賦した。枕山の序とともに評点が加えられている。
川本衡山(一八二六~一八六三)は八王子の人である。『于役唫草』は八王子千人同心として赴任したときの心境などを七言絶句一〇五編として述べたものである。枕山の序、雲如・本田覚庵の題詞がある。
これらの漢詩人は政恕と深い親交を結んでいた人々が多い。そのようすを富沢政宏家文書よりみてみる。
小野路村小島為政(慎斎)より、政恕に宛てた書状数通がある。その中の二通をみると、明治二十一年十一月二十七日付の書状に「観菊宴御尊来之処疎略御海容可被下候 来秋ハ令娘同伴御来遊待候」(観菊の宴を催しました節お出くだされましたのにおかまいもできませんでしたことをお許しください。来秋にはぜひ御令嬢同伴でお出でくださることをお待ちしています。)とあり、明治二十二年十月六日付には、「山園の菊花青柳其他盛開候間御令女様同伴来観御一詠願度候」(山園の菊花・青柳その他の草木は今が盛りですので、御令嬢同伴でお出でくださり和歌一詠をお願いいたします。)とある。令娘・令女とは政恕の長女亀子・二女高子のことで、二人は和歌をよくした。とくに高子はこのころすでに『詠進歌集』『明治歌集』などにその和歌が収められその名を知られていた。「御一詠願度候」とはこのことをふまえたものである。
窪素堂の「次韻三首添ヘ批評下サレ度」の書状とともに「松翁観菊ノ韻ニ次ス」「月夜菊ヲ賞ス」「白菊」の七言絶句がある。「次ス」とは次韻のことで、送られた詩と同じ韻字を用いて作詩することである。また政恕は向岡の地を愛して、明治十三年「向岡八景」の和歌・漢詩を広く募ったが、その中に素堂の漢詩「向岡八景詩稿」(資三―158)がある。
川本衡山と政恕とは詩の贈答を行っていたようである。「正月二十八日夜雪衡山川本氏ト聯(れん)句ス」の七言律詩がある(資三―276)。聯句とは各一人が一句ずつ作ってまとめた一編の詩で、中国前漢の武帝の頃行われたのが初めといわれている。政恕は次韻といい、聯句といい漢詩を日常生活の中に同化させた、詩情豊かな詩人であったということができる。
この他に漢詩人朝倉玉雅との交友がある。彼は高幡山金剛寺の住職で仏道に生涯を捧げた人だといわれている。金剛寺は新義真言宗智山派の別格本山である。「富沢尊君ノ玉韻ニ和酬シ奉ル」の七言律詩がある。玉雅は和歌も修め格調の高い詩を残している。「和酬」とは贈られた人の詩の内容に合わせた詩を作って答えるの意である。この玉雅の用いた韻字を政恕が押して再び答えた「金剛寺玉雅ノ韻ニ和ス」の七言律詩が残されている(富沢政宏家文書)。