明治新政府が硝煙のまだ消えぬ明治二年京都小御所で、明治最初の「歌御会始」を催したことは一つの意味をもつことであった。明治初年までの「歌御会始」は、皇族・側近の人たちに限られた歌会であったが、明治七年宮内省の布達によって何びとでも和歌を詠進することが許され、明治十五年からは新聞・雑誌などに発表されるようになった。毎年の「新年歌御会始」の御題の和歌を編集したのが『詠進歌集』である。
明治天皇の連光寺村への行幸は、明治十四年二月二十日のことである(本章四節)。この頃から政恕は皇室への尊崇の念を一層深くし、同時に和歌への精進を強くしていった。このことは、明治十四年二月の行幸の際の「謹んで向岡行幸を詠ずる歌」をはじめとする、皇室への深い思いを込めた長歌が『松園長歌集』に、折りにふれて数多く詠まれていることによっても知ることができる。
政恕はこの頃橘守部の孫道守との交友をもった。道守が主宰する椎本吟社は『勅題詠進歌集』『明治歌集』『共撰集』(後に『明治歌林』と改称)を出版していた。政恕が道守とどのような縁によって親交を結んだのかは不明であるが、富沢政宏家文書の中に道守より政恕への書状三三通、葉書四三通がある。最も古い年次は明治十六年六月十五日のものであるが、明治天皇の連光寺村への行幸の時期であった。道守は嘉永五年(一八五二)桐生吉田家に生まれた。一〇歳の時に江戸へ出て橘守部の子冬照の内弟子となり、橘家の養子となり道守と改めた。
明治十五年ごろから政恕は月並歌会を開くようになるが、一門は花月吟社と称しその門人は多摩市域を中心として日野・稲城・青梅などに及び、その数は七〇人にも達していた。この吟社の目標は自分の歌を『勅題詠進歌集』に収めることである。「富沢家文書」の中に「歌稿添削を賜はり度」「勅題拙詠御添削の上橘氏へ御返し下され度」「詠草添削の上四首抜き取り下され度」など門人からの書状をみることができ、政恕の門人への指導の熱意を伺うことができる。
明治十六年十月刊行の橘道守校閲による『新年勅題歌集第二編』に、連光寺富沢政恕・政恕長男政賢・政恕二女高子の和歌が収められている。『詠進歌集』に政恕の和歌が収められたのはこれが初めであり、政恕が目標としていたものでもあった。明治十六年の勅題は「四海清」であった。
明治二十年の『御歌会始御題詠進歌集』は、この年より道守編集により椎本吟社より出版された。富沢政恕・政賢・高子とともに、政恕門下である加藤英文・忠生村の坂倉歌子の和歌が収められた。明治二十五年『新年勅題詠進歌集六編』には、佳調部に真野文二・文二妻高子・富沢政恕・七生村の朝倉介福の和歌が収められ、政恕は長歌が佳調部にも収められた。明治二十六年『新年勅題詠進歌集七編』佳調部には、政恕をはじめとする前年のさきの四人に加えて、加藤英文・鈴木房政・七生村中村清・長男一信・朝倉介福・長男光房・佐藤良輔・忠生村坂倉歌子らが加わった。鈴木房政は号を玉巌といい、政恕の門人というよりは友人といってよい人である。坂倉歌子は、「麦花塚」(資三―160)「花の本神社奉詠桜花歌碑」(資三―161)『武蔵野叢誌』和歌欄に四首が収められている。政恕の門人は年を追って歌集に収められるものが多くなり、市域の歌人としてだけではなく中央歌壇にもその名を知られる者も多くなっていった。
図1―3―12 詠進歌集