明治八年『明治歌集』第一編を出版したのは橘冬照の妻東世子である。明治三十一年の第九編まで続刊された。高位・高官・名家の題辞・序文を加え上・中・下の三巻とし、巻尾に作者録を付し出詠者の居所・姓名・別号・舎号を詳記している。平均四六〇余人、歌数二六〇〇余首を収めている。東世子は明治十五年に死去したので道守が第六編から編集を継いだ。
図1―3―13 明治歌集
政恕の和歌が『明治歌集』に収められたのは、明治十七年九月出版の第六編からである。この集に八首が収められている。歌集中に次の一首がある。
天皇向岡に御狩せさせ給ふ時わが松蔭舎にいこはせ給ふ かしこみてよみ奉ける
千代しめしむかひの岡にかしこくもけふのみゆきにまつの下庵
二女高子も次の和歌一首が収められた。
信濃路や浅間の烟引かへてけさは霞と立にけるかな
この時高子は一六歳であった。政恕は高子をとくに可愛がり、その歌才を認め作歌の指導をした。第七編(明治二十年刊)に一〇首、第八編(明治二十三年刊)には一二首が収められた。『勅題詠進歌集』にも毎年収められている。高子は「富沢日記」によると明治二十五年四月十五日橘道守の媒酌により、工学博士真野文二に嫁したことが記されている。真野文二もまた和歌をよくした。後に勅題詠進の歌を集め昭和十六年『蜂声集』として出版している。文二は文を二つにして音声の通うことより蜂声の名をつけ集としたのである。