富沢政恕の和歌と門人

187 ~ 190
政恕は父昌徳と同様に、連句・発句では冨雪亭白雉・扇山などと号して、俳諧の宗匠たちが毎年正月に発句などを集めて刷った歳旦帳などにもその名をあらわしていた。連句をとくに得意としていた。政恕が和歌を志したのは一五歳で名主見習となったときで指導者としての教養を身につけていった。『富沢政恕之歴伝』によると、「国典及歌道ヲ前田夏蔭ニ学ビ」とあり漢籍・漢詩文とともに勉強しはじめている。前田夏蔭(一七五三~一八六四)は江戸末期の国学者で江戸の人である。清水浜臣に師事し水戸光圀の『明倫歌集』の撰に参画した人である。
 和歌は国学者たちから純粋な日本精神の発露として尊崇を集めてきた。和歌と皇室との関係は深いものがあった。儒教が移入される前に日本には古道が存在していたとして、国学の基をつくったのは荷田春満である。春満の国学を継承したのは賀茂真淵である。春満の国学観は国史・法制・歌文・語学の四部門に示されたが、真淵は生涯の中で全部を全うすることはできないと、その一つの柱である歌文を万葉集の研究によって究めようとした。国学は尊王思想を中心として古文学に親しみ、古道を自覚する一つの段階として和歌を詠んだのである。真淵のすぐれた二人の門人といわれたのが歌文派の村田春海であり、古道派の本居宣長であった。夏蔭は清水浜臣の門で歌文派の国学者である。政恕は大国魂神社の神主で国学者である猿渡盛章・容盛親子とは親交が深かった。盛章は桃園と号し『樅の下枝』の歌集がある。容盛は盛章の長子で小山田与清の門に入り、平田篤胤の影響を受けた。容盛が父盛章のこころを継いで編集した『類題新竹集』(明治四年)に、政恕の和歌四首が収められている。当時の国学者の系統をたどれば、政恕は真淵~村田春海~清水浜臣~前田夏蔭と歌文派の国学者で、和歌を主とした流れに属する人物である。盛章は真淵~村田春海~小山田与清。容盛は平田篤胤にも心を寄せ、本居宣長に近い古道派の人であった。
 政恕が生涯に詠んだ歌数はどの位あったのであろうか。富沢政宏家文書中の歌集を一覧にしたものが表1―3―14である。
表1―3―14 富沢家文書中の歌集
歌集 丁数
明治5 左幾久佐集 80
14 松園和歌集 62
20 菊の籬 5
35 松園歌集 31
松園歌集 52
36 松園歌集 上 71
     中 50
     下 54
37~40 八重垣歌集 31
梅百首詠草 11
花百首詠草 11
月百首詠草 9
雪百首詠草 9
松園百首詠草 10
(松園自撰百首)
松園三勝歌 4
松園三十六首 4
集外三十六歌仙 5
拾穂三十六歌仙 5

 歌集のすべては草稿の筆写本で板本になったものではない。一首ずつの校合はできないが重複するものもある。それを除いても相当の歌数になる。一人の生涯でこれ程多くの和歌を詠んだということは、政恕のすぐれた歌才とともに和歌への熱意を知ることができる。富沢家文書の蔵書をみると、国典・漢籍と蔵書数の多さと広範な読書量を知り敬服させられるのである。
 『左幾久佐集』は歌を志したころから明治五年までの三〇年間の和歌を集めたものである。序に「吾わかかりし頃より鋪(しき)しまの道にこころさし朝な夕な詠いつる和歌五十(いそぢ)のけふに至るまで三十(みそぢ)あまりの年月摘ためし草々をひらきみるに」と記している。政恕の五〇歳は明治七年である。和歌一一四二首、長歌一二首が収められている。
 『松園和歌集』は四種あるが加除を経て集大成されたのが、明治三十六年の『松園歌集』上・中・下巻で、歌数は和歌二〇一〇首、長歌二首が収められている。
 『松園長歌集』は明治十四年~三十五年までのものを集めたもので、政恕は長歌にも長じていた。内容は長歌九五首、反歌八二首、回文歌一首、旋頭歌八首、今様歌五首、唱歌六首、合計一九七首である。
 政恕は歌道においては「松蔭」を号としていた。夏蔭から「蔭」を授けられたものである。政恕は和歌門人の高弟には「蔭」の号を与えている(資三―162)。春海一門で夏蔭を継ぐものであるとの誇りがこめられたものである。
 松園門下の和歌集『玉川拾玉集』『玉川歌集』(富沢政宏家文書)は草稿の筆写本である。『玉川拾玉集』は明治五年から同三十年の間の月次会・臨時共選会などの門人のすぐれた和歌を政恕自らが抜粋し二八丁に書き留めたものである。収録の多いもの九人を次に掲げる。
六四首 富沢涼蔭  四一首 富沢高子  三一首 嶋崎義直  一六首 館朝蔭  一五首 朝倉介福
一二首 富沢政賢  一一首 中村額助  一〇首 飯島徳丸   九首 小金豊寿

 小金豊寿・嶋崎義直は明治二十八年の政恕の古稀・梅子の還暦賀歌披講式(資三―275)の執事を勤めた。明治十六年につくられた花の本神社奉詠桜花歌碑(資三―161)には、朝倉介福・飯島徳丸の名が、また明治十四年につくられた麦花塚(資三―160)に朝倉介福・飯島徳丸・富沢政賢の名が刻まれている。
 『玉川歌集』はその序に「吾か松蔭のやとりを訪ひ来し人々の詠送りし言の葉をつみ集め一巻となし 此里の名におふ玉川集と名つけ清き流れをとこしへに伝へむとてかくなむ」とあって、政恕七三歳(明治二十九年)のときの選である。これも草稿で六〇丁に書き留めたものである、収録された和歌の多い者九人を次にあげる。
五五首 小金豊寿  五五首 嶋崎義直  五三首 加藤英文  四三首 佐藤博敏  三八首 小形文平
三一首 中村清  二九首 寺沢豊吉  一四首 小泉良助  一三首 小金清蔭

 外からは新体詩運動、内からは和歌改良論が興り、和歌革新の機運が芽生えてくるのは、明治二十六年の落合直文の浅香社の運動からであった。浅香社によって育てられた与謝野鉄幹・晶子らの新詩社の運動は、歌壇に新風を注ぎ込み、新派の和歌がしっかりとしたものになった。一方では正岡子規は『歌よみに与ふる書』の中で和歌の写実を述べ、根岸短歌会が設立されたのは明治三十二年で和歌革新の源となった。これらの人々は旧派の歌人を論難した。すでに新派の歌風が歌壇を大きく動かしていたが、歌会始の詠進歌は旧派調とよばれる歌で占められていた。
 政恕は多摩市域のすぐれた指導者であり、大きな影響力を有していた。政恕は和歌の伝統を守った旧派に属する歌人であり、その影響下にあった市域の歌壇は旧派一色であって、政恕によって統一されていたかの観があった。多摩市域の歌壇は、新派の影響を受けることなく旧派の和歌の伝統を固く守り通したということができる。