多摩のキリスト教

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明治六年(一八七三)二月、諸外国の圧力によって切支丹禁制の高札が撤去されると、キリスト者は公然と伝道を開始した。
 明治六年十月二十三日、二人の日本人伝道者が府中新宿(府中市)の比留間家を借り、三〇人ほどを集めて説教を行った。この二人は小川義綏(よしやす)と奥野昌綱(まさつな)というプロテスタントで、関東一円の農村伝道を行い後半に府中に到着したのであった。かれら二人の行動は、日本プロテスタント史上、日本人による最初の伝道という歴史的な壮挙であった。それに小川義綏は府中本宿分梅(府中分梅町)の出身であったことから、故郷の景色に触れ親戚縁者に接して、感慨もひとしおであったろう。
 小川義綏は幼少の時、父母と共に江戸に出たが、文久三年(一八六三)、洋学修業を目指して神奈川(横浜)へ移り住んだ。かれは通訳官の門人になったことから居留地へ自由に立入り、宣教師バラ(J. Ballagh)の紹介でタムソン(D. Thompson)の日本語教師となり、明治二年(一八六九)三月、三八歳でタムソンより洗礼を受けた。明治五年(一八七二)二月には、日本人のための最初のプロテスタント教会である「日本基督公会」が設立され、小川は投票によって「長老」に選出された。日本人として牧師になったのも小川が最初であった。
 二人が比留間家で伝道を行った時、その場に六所宮(大国魂神社)の祢宜(ねぎ)・猿渡(さわたり)盛孝が居合わせた。猿渡は、小川らの説教が「懇切丁寧ニシテ、人ヲシテ涙ヲ呑シ」め、この状況を見て「日ナラズシテ郷民、彼ノ教ニ傾カンコト必セリ」と「横浜説教所御出張」に報告した(日本近代思想大系5『宗教と国家』)。
 翌日、小川・奥野の二人は、義綏生家の隣家である叔父の家で説教を行い、そこから三沢村(日野市)の土方円の許に立寄り、八王子へと向った。途中の三沢村へ行くには中河原を通り多摩川を渡船で渡り、本市域の一ノ宮、落川を経て行ったのであろう。
 二人が横浜にもどってから、伝道の件で区長が県庁から叱責を受け、比留間家は始末書をとられ、分梅の小川家も行政から干渉を受けたことを知った。そこで小川義綏は比留間家に手紙を送り、解禁されたキリスト教を横浜や築地の例で説明し、禁止というなら「聴者ヲ止」めるよりは伝道者の説教を禁止すべきであると説き、権威に従うことは「旧弊ト申モノ」であり、開化の時代は是は是、非は非(よいことをよい、悪いことを悪い)とすることが「真理ノ大道」であると説いて、キリスト者の姿勢を示している(前掲書)。
 だが為政者は関係者の叱責や始末書だけで終わらせようとしなかった。以後もこの類の事件は起り得ると判断したのであろう。「富沢日記」によると、伝道が行われたおよそ一か月後の十一月二十九日、関戸の九番組会所に村落の伍長一同を出頭させ、「耶蘇予防」について伍長より保証の印をとった。
 同じくその翌十二月、第八区九番組乞田村でも、中小教院協賛の「誓約書」に関係づけて村の伍長を集めて誓約のため「印形」を取り、その説明として次のように記している。
右者耶蘇宗門流行ニ付、右江携(たずさわ)り間敷ノ由、十二月一日小区会所ニ於テ伍長印形取

(有山昭夫家文書)

 実はこの一〇日ほど前の十一月二十日、多摩市域も含まれる第八区の区長・副区長、それに一番組から十番組の戸長・副戸長全員が洋教(キリスト教)拒絶の「会盟書」に署名捺印しているのである。「会盟書」には、各区長以下村吏は洋教を厳重取締り、異教の「巡説」には関与せず追払うことを盟約している(『町田市史』下巻)。これを受けてその盟約を村落に徹底させるために九番組の村落(関戸・連光寺・貝取・乞田・寺方・落合・一ノ宮)では伍長を集めて請印させ徹底したのである。
 この事態は隣接した第九区にも波及した。第九区八番組(八王子市)では六年十一月に「盟約連印書」を村々に配付し、各家に連印させ提出させている。その内容は、「……洋教異説ヲ唱民心ヲ誘惑致候もの有之候ハハ一泊一休タリトモ不為致断然拒絶シ追払候様可致候」と記されている。キリスト教やあやしげな説を言い広める者に対しては、宿泊させることはおろか、しばしの休息も絶対にさせず、きっぱりと断わり追い払ってしまうという村民の誓約が記され、それを通して為政者のキリスト教に対する断然拒否の姿勢を読みとることができる。
 これらの背景には小川義綏らのキリスト教伝道が存在していたことは間違いない。高札撤去によって起された波紋に、為政者たちは、村落を動員してキリスト教に対抗し積極的に阻止する姿勢を示した。これらの行動をみても、多摩市域がキリスト教の拠点であった横浜や東京に近接していたことから、常にキリスト教が浸透してくる状況に置かれていたことが明らかである。