多摩村と天然理心流

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連光寺村の富沢政恕(まさひろ)(一八二四~一九〇七)は、幕末には日野宿外四三か村の大惣代となり、明治一〇年代には神奈川県会議員として活躍した。かれは文武にもすぐれて、早くから漢詩を小野湖山に、和歌を国学者の前田夏蔭(なつかげ)に、経典を佐藤一斎に学ぶというように、当代一流の師に就き、剣術は、天然理心流三代近藤周助邦武より指南を受けていた。ちなみに邦武の後継者は近藤勇で、勇は新選組局長として活躍したことはよく知られている。富沢政恕は近藤勇とは兄弟弟子で親交があり、元治元年(一八六四)、富沢が旗本について上洛した時、京都で新選組を壬生に訪ね、近藤勇、山南敬助、土方歳三、井上源三郎、沖田惣司らを「旧友」として接しており、京滞在中に近藤などから、祇園や島原で、四たびも接待を受けている(富沢政恕著『旅硯九重日記』『ふるさと多摩』二号)。
 幕末の多摩は剣術が盛んであった。剣術の特色は、門人の分布から八王子を中心とした千人同心と、それ以外に分けることができるという。流派は天然理心流、大平真鏡流、甲源一刀流の順で門人が多かった。この流派のうち、天然理心流は武士の系譜と農民の系譜があった。武士の系譜は八王子千人同心で、もし千人同心がいなかったら多摩郡で天然理心流は盛んにならなかったであろうといわれている。
 農民の系譜の筆頭は多摩郡小山村(町田市)出身の近藤周助邦武で、かれはそれまで剣術の空白地帯であった八王子より東部から南部の地域に浸透させていった(小島政孝『武術 天然理心流』上)。さきの富沢政恕が天然理心流を受容したのもこの影響によるものであろう。近藤周助の道場は江戸市ケ谷柳町にあり、出稽古を行い、多摩の名主宅等を巡回していた。四代近藤勇もこの方法を踏襲している。
 維新後、天然理心流は、近藤勇が新政府に反抗して処刑されたことから中央での活動は控えていたが、在地の多摩や神奈川県、埼玉県の一部では活動が続けられていた。
 明治十六年(一八八三)、東寺方村の伊野銀蔵(一八四八~一九一一)は天然理心流の目録を秋間源平より与えられた(資三―131)。秋間源平は戸吹村(八王子市)の松崎和多五郎の後継者の一人である。ここでいう目録とは天然理心流の伝法の一つで、伝法は切紙→序目録→目録→中極意目録→免許となっている。切紙は入門後二、三か月から半年で授与されるという。伊野銀蔵は八王子千人同心の隊士であった。「墓誌」(資三―299)によると、武を好み一四歳で銃陣学を練習し、剣法を比留間邦武に学んだとある。千人同心は幕府直属の下級武士団で、半農半士であったが、武士ともなれば好むと好まざるとにかかわらず剣術の修行は当然のことである。伊野は元治元年(一八六四)から翌年にかけて日光勤番に従事し、その後、江戸の青山火薬庫や横浜警衛に出張している。

図1―3―14 天然理心流目録

 伊野が秋間源平より天然理心流の目録を得た明治十六年、伊野が三五歳の二月二十四日に自由党に入党した。当時三多摩で豪農層が参加した民権運動に加入したのだ。伊野の政治行動と剣術志向とは無縁ではない。明治十七年(一八八四)八月、自由党本部では全国からの献金によって「文武の業を攻究する所」として有一館を設立、とりわけ武に重点を置いて壮士養成機関としたところから、政治運動と剣術の錬武とは一体をなしていたと考えられるからだ。伊野の行動もこの路線上にある。この有一館建設の献金には神奈川県多摩郡の自由党が多額の資金を自由党に拠出している。
 明治の時代、多摩村において剣術を身につけ、あるいは剣術に関心を持っていた者は少なくなかった。年代は不明であるが、伊野銀蔵宛に村の有志から手紙が届いた。内容は和田の十二社(じゅうにそう)(神社)境内で撃剣会を催す予定が暴風雨で開催できなかったため、かわりに行うこととなった剣道講習会への参加依頼である(資三―135)。伊野のほかにも剣術に関心を示し、村落で撃剣会や講習会が開催できるほどの状況にあったことがわかる。