多摩村の和算

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和算とは日本古来の数学の呼称である。特に江戸時代、関孝和の流れをくむ関流の和算が画期的な発展を示し、幕末近くになると各地に和算を学ぶ者が見られるようになった。
 和算は、明治以降西洋数学が取入れられると衰退していったが、多摩市域では教養として和算が引継がれ、私塾が設立されるほどであった。
 多摩郡の和算には次の四つの系列がある。即ち①江戸昌平黌から八王子千人同心の受容による系列、②江戸・関流の福田理軒より受けた小俣勇(矢野口村)、伊野銀造(東寺方村)の系列、③同じく江戸・関流の川北朝鄰を師とした鴨下春良(小金井村)、それに④谷保村の遠藤保利の流れである。その中でも頂点に位置したのは鴨下春良であった(佐藤健一『多摩の算額』)。多摩市域には鴨下春良の弟子四七人のうち一四人がいた(資二(2)401頁)。
 本市域の和算の指導者である東寺方村の伊野銀蔵は、生来、数学に関心を持っており、維新後の明治二年(一八六九)二二歳の時、大丸村(稲城市)の材木商高野五右衛門に就いて算法を学んだ(清水庫之祐『八王子を中心とせる郷土偉人伝』)。その後「奮励、遂ニ東都ニ赴キ、贄(し)ヲ理軒福田先生ノ門ニ執リ、数理ノ一班ヲ学ブヲ得」ることができた。伊野が師とした福田理軒は、順天堂求合舎で和算を教授していた。伊野は「就学スルコト数年頗蘊奥(うんおう)ノ術ヲ受」けて帰郷した(資三―139)。
 伊野が郷里にもどると、伊野のもとに近村の子弟が和算の受講を希望し、その数も少なくなかった。そこで伊野は開塾を決意し、昼は農業に従事し、夜間に青年たちに教授することを決めた。明治十七年(一八八四)、塾生たちは相談して多摩郡高幡村(日野市)の金剛寺境内にある高幡不動堂に算額を奉納することを決め、師の伊野銀蔵に申し出た。算額とは自分の作った問題や解答を書いて神社・寺院などに奉納する絵馬をいう。塾生の原稿を見た伊野は、塾生の「志千里ニ伸ントスルヲ賞シ、其術ノ拙ナルヲ笑フ勿レ」と記して序文としている(資三―139)。
 高幡不動堂奉納の算額を担当した塾生の伊野覺次と杉田初五郎は次のように説明している。
     武蔵高幡不動(ママ)奉納算額に就いて
擔當人   
伊野覺次
杉田初五郎

明治十七年三月
童蒙ノ知識ヲ振興シ開明ノ進歩ヲ誘導スルハ数学ニ如(し)クハナシ 故ニ現今小学ニ於テモ其科目ヲ設ケ皇洋ヲ論ゼス其技ヲ教諭ス 故ニ文明化新ノ餘光ヲ同志ト共ニ進歩セント欲シ開夜学年月ヲ不経被塾依其喜作額諸君之問答書シ神壁セントス

これに続いて「教学門人連名」として次の一九人を連記している。
藤井角太郎(寺方村)、杉田慶助(同)、藤井斧吉(同)、伊野治郎兵衛(和田村)、野島富次郎(同)、新倉貞蔵(落川新田)、(以下氏名のみ)増田喜一郎、石坂伴次郎、増島惣吉、石坂辰五郎、小暮孫八郎、永井平太郎、小暮福蔵、佐伯龍太郎、小形唯一郎、伊野富佐次、内田染蔵、杉田初五郎、伊野覚次

 氏名の後に「右之者素志ニヨリ高幡不動堂ヘ算術問答ヲ額面ニ載セ奉納致ス者也」としている(守屋隆造稿「武蔵高幡不動奉納算額に就いて」)。
 一九人の塾生以外に守屋角三郎や佐伯太兵衛がいるが(清水庫之祐前掲書)、これらの塾生たちは多摩市域の村々において上・中層に属し、後の多摩村を担っていく有為な若者たちであった。