多摩村の車人形

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幕末の多摩で誕生した民衆芸能の車人形は、地元で盛んであった説経節と結びつき、庶民の娯楽になっていた。現在でも八王子に伝えられた車人形は、「八王子車人形」として東京都の文化財に指定されている。他方、西多摩郡奥多摩町にも「川野車人形」の名で伝承されている。
 車人形は、人形遣い西川古柳(本名山岸柳吉)によって創案されたといわれ、明治・大正時代には多摩の各地で一座が結成され庶民の娯楽として演じられていた。その車人形の分布と伝播について小田内通久は「八王子車人形の話」(『民俗芸術』一巻五号)に書いている。それによると、昭和二年(一九二七)末の調査で、車人形の残っている地域は小宮村安土(八王子市)、八王子市、横山村新地(八王子市)、恩方村松竹(八王子市)の四か所の他に多摩村関戸(多摩市)という。小田内が記した多摩村関戸は、正しくは東寺方ではないかと思われる。関戸としたのは当時京王線の駅名が関戸(聖蹟桜ケ丘)で、関戸の地名が一般化していたからではないだろうか。この東寺方の宿村(しゅくむら)家に車人形が伝えられているからだ。
 宿村家は農業を経営していたが、主(あるじ)・玉太郎(一八五九~一九四二)は車人形の遣い手であった。芸名は西川玉造を名乗り、八王子の興行師秋間一昇についていた。土蔵の二階には人形や人形衣装、それに説経本が残されていたというが今はない。人形遣いであったことから宿村家は「人形屋」の屋号で呼ばれていた(宿村薫さん談)。多摩村唐木田の高村十蔵(多摩村和田出身)も宿村玉太郎のもとに参加し、女形を得意としていたというから玉太郎を中心に一座ができていたのであろう。

図1―3―15 宿村玉太郎と車人形

 宿村家の車人形は、実は多摩村和田(多摩市和田)の柚木浅次郎旧蔵のものと思われる。人形師であった柚木浅次郎の死後、人形を寺方に渡したという話が残っているからである(柚木健蔵氏談)。それ故、多摩市域の車人形は柚木浅次郎について調査されなければならない。
 柚木浅次郎は天保九年(一八三八)四月二十八日の生まれである。浅次郎は明治元年(一八六八)中和田村の組頭をつとめ(資二(1)37)、同三年には和田村の与頭(くみがしら)になっている(同41)。明治十九年一月の南多摩郡「地価大鑑」によると、地価は七六二円六八銭で、南多摩郡においても上層部に属している。直接国税一五円以上の衆議院議員の選挙権もあった(資三―188)。以上の事から柚木家は村落において上層部に属していたことがわかる。柚木家には、浅次郎自筆の日記や金銭出納帳が部分的ではあるが残されており、記録は緻(ち)密でかつ整然と記述されて浅次郎の性格がうかがえる。
 柚木浅次郎の「金銀出入覚帳」や「日記帳」の中に人形芝居についての記録が散見できる。人形芝居関係ではじめて登場する記録は、明治十六年四月七日の「金銀諸費出入帳」である。「一金弐拾銭 甲州若松嶋太夫江わらじ銭ニ相遣候也」とある。「わらじ銭」は少額の旅費の意であるが、甲州では笹子追分(大月市笹子町追分)に人形芝居があったが(山梨日日新聞『甲州街道』)、その関係者であろうか。二十年に入ると、がぜん記録が多くなる。
 二十年十・十一月には「日記帳断簡」と「金銀出入覚帳」に次の記録がみられる。
十月十七日   「和田人形乞田村買れ行也」(日記帳)
十月十八日   「和田人形小金井村ヱ買れ行也」(日記帳)
十月二十八日  二銭「キ太夫(義太夫)本八冊」(出入帳)
十月二十九日  一円「八王子の柳寿ヱ人形頭二ツ代内金」(出入帳)
十一月五日   「午後上組ヱ人形○帰シニ行也」(日記帳)
十一月二十七日 拾四銭也「人形び(ひ)んミの(かもじ)四枚代」(出入帳)

 柚木は自らの人形芝居を和田人形と書いている。車人形研究家久米井亮江は、和田の人形は二番人形と呼んでいたと書いており(久米井亮江「武蔵野に咲かせばや車人形」『多摩文化』二〇号)、「浅次郎は車人形の座元を勤め」た(「郷土人文録」柚木健蔵の項)とも伝えられている。浅次郎は後にみられるように人形つくり、かざりつけ等をみると、座元でありかつ人形に精通していたことがわかる。人形芝居の興行も盛んであったようだ。乞田村(多摩市)や小金井村(小金井市)にも回っている(十月十七日、十八日)。十月二十九日の「八王子の柳寿」は西川古柳の弟子で小宮村安土(八王子市暁町)にいた小町源三郎の芸名である。八王子の車人形との交流もこれでわかる。
 明治二十二年の「日記帳」にも次のような記録が見られる。
二月二十二日 「右本人(勇造)東京ヱ人形興行[  ]役ニ行」
十月十三日   「平村梅三郎、人形の頭五ツ買ニまいられ候」
十月十六日   「浅治(次)郎、人形こしらい」
十月十七日   「浅治郎、人形のどふ(胴)こしらい」
十二月二十四日 「人形のかざり付致す也」
十二月二十八日 「浅治郎内エ、人形かざり付致ス」
十二月二十九日 「浅治郎内ニテ人形のかざり付致ス」

 「日記帳」によると浅次郎は車人形を自ら作ったことがわかる。ここで注目されるのは、二月二十二日の東京興行である。車人形は幕末から明治二十五、六年頃までは、江戸・東京を中心に神奈川・千葉・埼玉等の寄席や芝居小屋で演じ、珍しい車仕掛が人気を呼んで至る所で大入り大繁盛であったという(小田内通久「八王子車人形の話」)。和田の車人形もこの波に乗って東京興行に参加したのであろうか。時期も一月十日であれば農閑期で人形による稼ぎもできる。二十年一月十日にも「金銀出入帳」に東京興行と思われる記録がみられる。
 柚木浅次郎は、明治二十一年(一八九八)十一月十五日に死去した。享年六一、隨順道照居士が戒名である。墓石には三番叟を演じている車人形が刻まれて楽しそうに踊っている。浅次郎が死去した後、人形の一式は東寺方に渡されたという。宿村家の車人形がそれであったのにちがいない。

図1―3―16 柚木浅次郎の墓
台石に三番叟(さんばそう)が彫られている。

 柚木浅次郎の他に和田村には人形遣いがいた。飯島甚三郎である。明治二十年九月二十四日、落合村(多摩市落合)の天神社の信徒惣代等が南多摩郡長に「奉納人形使小屋掛」を提出した。神社の祭典に人形興行を奉納しようと願出たのである。それによると、九月二十五日の午後二時から十二時迄、東福寺境内に葭簀張(よしずばり)小屋掛をして「本郡和田村飯島甚三郎ヲ相雇ヒ奉納トシテ人形興行仕度」という内容の許可願いである(佐伯弘次編『小山晶家文書(三)』)。この許可願いにより和田村に柚木浅次郎の外に飯島甚三郎が人形遣いとしていたことがわかる。この奉納興行は、午後二時から夜中の十二時までとしていることから、出し物もそれなりに準備されていなければならなかったであろう。
 多摩村和田に伝承された車人形は、明治二十年前後に柚木浅次郎を中心にして車人形隆盛の一時期を形成したが、その後多摩村の他の地域に伝幡してその命脈を保持した。後の大正十五年(一九二六)十月三日、落合の長坂橋の地蔵尊供養で車人形芝居が行われた(峰岸松三編『多摩の年表』)。人形遣いは高村十蔵、出し物は「阿波の鳴門」と「かるかや」であった。人形遣いの高村十蔵は和田の峰岸家から高村家に入った人で、和田の峰岸家は柚木浅次郎家の下手(しもて)にあったという。高村十蔵は柚木浅次郎の影響を受けて人形遣いを演じたと考えて間違いなかろう。なお大正十五年、唐木田で演じられた車人形の舞台は、農家の庭先で広さ間口二間、奥行九尺ぐらいで、家々から集めた梯子を縁側の高さぐらいに敷いて舞台の骨組みとしてその上に板を並べ、その両側には黒幕をひいて、楽屋は物置を利用したという(落合 峰岸松三氏調査による)。